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【連載】四季のたしなみ、暮らしの知恵(十一)年越しの定番「蕎麦」のあれこれ
2015.12.30
日本人は、ご多分にもれず蕎麦が好き。それが証拠に、立ち食い蕎麦のスタンドは、どこも賑わっているし、そのうえ手打ち専門店も登場して、蕎麦屋稼業と老舗店と共存して余りあるほど。
大晦日には、決まってどこの蕎麦屋でもちょっとした行列ができます。今でこそ、当たり前の風習となった年越し蕎麦は、江戸中期の商家から始まり、一般的には細く長い蕎麦を食べて家運を伸ばし、寿命を末長く、来る年も身代を細く長く保ちたいものだという、庶民の願いが込められていると言われてきました。

さて、実際のところ、どうでしょう?
江戸の商家の大晦日といえば、お勘定の精算業務が夜遅くまで続くため、慰労の意味合いも兼ねて、ようやっと貸借勘定が清算したところに蕎麦が登場します。
縁起を担ぐというよりは、さっぱりした気分で新年を迎えたいという思いや、家庭の台所事情で正月のおせち料理を用意する合間に賄いを仕込むのも大変だから、手軽に食べられる蕎麦を選ぶ家庭が増えてゆき、「年越し蕎麦」として習慣化したのかもしれません。
江戸時代から愛された庶民の味
蕎麦は無理に趣向を凝らした料理ほど気取らず、いつ食べても程なく旨いもの。庶民の食べ物だから、どんな食べ方をしようとお構いなし。かえって通人ぶると、肝心のお蕎麦も旨くありません。けれど、うんちくを話し出せば、少々うるさい食べ物になります。

今でこそ、食べ終わったら、蕎麦湯が出されるが、本来は釜湯を蕎麦湯として注文前に出していた。風呂場では湯桶(ゆおけ)と呼ぶが、これは湯桶(ゆとう)と読ませる。注ぎ口と柄ともに横角に付いている、この形状から、ひとが話をしてる最中に横から口出すことを、“蕎麦屋の湯桶”と称する。
江戸時代には、“ニ八蕎麦”と呼ばれる、蕎麦を打つ際に小麦粉などのツナギを2割ほど配合した打ちかたが流行っていたようです。蕎麦屋といえば天秤棒を使った担ぎ屋台(振売り)から始まり、やがて酒も出せるような店を構えたスタイルへと移行していきました。
江戸の民間風俗を記した『守貞漫稿』(もりさだまんこう)によれば、萬延年間に江戸で、驚くことに、なんと3,763店もの蕎麦屋があったというのですから、いかに蕎麦屋が庶民の生活に根付いていたかが分かります。
さらに、町家の旦那衆向けに、たねもの(具が入ったもの)、生蕎麦(きそば)と称した“手打ちの蕎麦“が、庶民向けの駄蕎麦と区別した高級志向の蕎麦屋として、江戸時代からぼちぼち出現してくるのです。
夏目漱石の弟子・内田百閒もお気に入りだった盛り蕎麦
さて、時は明治に入っても、手軽に食べられる庶民の味として、蕎麦の人気は安定したものでした。蕎麦に関するエピソードを残しているのは、文筆家・百鬼園(ひゃっきえん)こと内田百閒。文豪・夏目漱石の弟子の一人です。
代表作『冥途』のほか『続百鬼園随筆』『旅順入城式』などを次々に上梓し、人気作家としての地位を確立しつつあった頃、『菊世界』を執筆しました。『菊世界』に書かれた蕎麦のくだりは、後に食べ物アンソロジーである『御馳走帖』にも掲載されたほど。どれほど蕎麦が人々に愛されていたかという当時の様子と、百閒の人柄が垣間見えるエピソードです。
代表作『冥途』のほか『続百鬼園随筆』『旅順入城式』などを次々に上梓し、人気作家としての地位を確立しつつあった頃、『菊世界』を執筆しました。『菊世界』に書かれた蕎麦のくだりは、後に食べ物アンソロジーである『御馳走帖』にも掲載されたほど。どれほど蕎麦が人々に愛されていたかという当時の様子と、百閒の人柄が垣間見えるエピソードです。

内田百閒(Wikimedia Commonsより)
『午飯を廃して、蕎麦の盛りを一つ半食ふ事にきめた。蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない。ただ普通の盛りである。続けて食ってゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまってゐる為に、箸に縺れる事もなく、日がたつに従って、益うまくなる様であった。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百余日、私は毎日きまった時刻に、きまった蕎麦を食ふのが楽しみで、おひる前になると、いらいらする。』(内田百閒『菊世界』より)
百閒は、自分が思ったとおりの行動規範で生活しないと気が済みません。決まった時刻に昼飯で家に戻りたいから、8銭の蕎麦のためでさえ、急ぎで50銭する車代さえ厭わなかったという変人。大好きな晩酌のために、日中の食事は胃の余力を残さねばなりませんから、あっさりと腹にもたれない程度で満たされる選択として、もり蕎麦は適当だったのでしょう。
今も残る、蕎麦屋と稲荷の深い縁
ここで一つ、蕎麦と人々の暮らしのつながりを感じられる蕎麦屋と伝説を紹介します。

東京の後楽園駅から富坂を上り詰めた先、春日通り沿いに、ビルの一階にひっそりと蕎麦屋の暖簾が下がっています。屋号に染め抜かれたのは「稲荷蕎麦 萬盛」(まんせい)。都内の数ある蕎麦屋で、この店をご紹介するのは、近隣にある澤蔵司稲荷を訪れた際、筆者がある縁起を見たことに因ります。
江戸時代に伝通院に寄宿し、修業していた澤蔵主(たくぞうす)という若僧がおり、蕎麦が好きで毎日のように門前の蕎麦屋へと通っていました。しかし澤蔵主が支払いをする度、なぜか木の葉が混ざっているのをおかしく思い、ある日、蕎麦屋の主人が彼のあとを着けて行ったところ、若僧が稲荷様へと入って行くのを発見。これはきっと彼が稲荷大明神の化身であるに違いないと感づきます。

小石川の澤蔵司稲荷のきつねさんは、ちょっぴりユーモラスで可愛いと思いませんか?
「江戸のまち、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という江戸時代の流行り言葉にあるように、お稲荷様は商売や食の神様として町内に多数祀られ庶民にとって馴染み深い神様でした。
そのため、お稲荷さまに願掛けする際に、庶民が蕎麦を食うのを断ったり、願解きの礼に蕎麦をお供えするようなこともあったといいます。この「稲荷蕎麦 萬盛」でも創業以来、今も毎日欠かさず、お稲荷様に初蕎麦をお供え続けているのだとか。

そんな伝承をもとに「稲荷蕎麦 萬盛」で供される蕎麦が「いなり箱蕎麦」。奉納されているのと同じく朱塗りの箱に蕎麦猪口、つゆなどが収まったもので、盛り蕎麦のうえに、ちょこんと甘辛に煮詰めた油揚げが刻みで乗せられています。この趣向と店に伝わる稲荷伝説を重ね合わせると、なんとも言えないほっこりとした思いに駆られるのです。
最後に、年越しの蕎麦の後味が悪くならない程度にうんちくを一つ。
今でも蕎麦屋の屋号に、○○庵という名前が見受けられるのは、江戸時代に道光庵というお寺で蕎麦を振る舞っていたところ、たいそう評判を呼んだところから、そのネーミングにあやかったものだとか。
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桃猫
東京生まれ。茶人として各地に赴き、日々、中国茶の茶話会を開催。とうきょうの街歩きをフィールドワークとして銭湯、寺社、名跡などを探索するうちに、グルメや趣味の数々をつづったブログ=桃猫温泉三昧を継続し、今年10周年を迎えた。その趣味は多岐に渉り、銭湯と温泉巡りで960湯達成、鉱物マニア、古書蒐集、無類の麺喰いでもある。スピリチュアルな方面にも詳しい。
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