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第60回 生きることは、愛すること-------『いつかの夏』を読んで
2017.01.21
最終回です。
足かけ3年にわたって書かせていただいたこの連載エッセイ。本当にとても楽しい仕事でした。
愛読してくださったみなさま、大人すはだの編集長のKonomiさん、あきゅらいずのスタッフのみなさまに、心より感謝いたします。
さて、最終回の話題として、いったい何がふさわしいだろうかと考えた末に思い至った「愛について」、今の私が思っていることを書いてみたいと思います。
まず「生きることは、愛すること」というタイトルについて。
これは、サイン会で、私が自著にサインをするとき、読者の方々のお名前のそばに添えさせていただいている言葉です。ほかには「また会えたね!」「人生は愛」などがあります。いずれも私の好きな言葉です。「また会えたね!」は、若い読者向け。恋愛小説のテーマとして、好んで取り上げてきた「再会」を象徴しています。「生きることは、愛すること」と「人生は愛」については、去年、60歳(連載回数と同じですね)になった私の、等身大の思いでもあります。

生きることは、日々、愛すること。愛の対象は、人だけに限らなくていいと思っています。猫でも犬でも植物でも、本でも映画でも音楽でも、もちろん仕事でも恋人でも夫でも。ひとつだけじゃなくて、複数でもたくさんでも。でも、とにかく何かを、誰かを、毎日、お日様の光を浴びて光合成をするかのように、雨に濡れながらつぼみを膨らませるかのように、愛すること。これこそが「生きる」ということではないかと、このごろの私は思っているわけです。
そして、サブタイトルに掲げた『いつかの夏』(KADOKAWA刊)。
私の敬愛してやまない作家、大崎善生さんによって書かれた、最新のノンフィクション作品です。2007年の夏、残酷きわまりない犯罪の犠牲になり、若く美しい命を踏みにじられるようにして(このような表現では到底、足りていないと思えるほど無残なやり方で)奪われた、ひとりの女性とその家族、彼女の愛した人たちに捧げられた、鎮魂歌とも言えるような1冊です。

大崎さんは本書の出版に際して、「この作品がひとつのピリオド。『聖の青春』から始まった作家人生は、この物語を書くためだったのかもしれない。これで終わっても、引退してもいいと思うほど書ききった」というコメントを寄せています。
さまざまな偶然が重なって、ある日、あるとき、犯罪の標的になってしまったら、あなたはどうしますか?
どんなに気をつけていたって、避けようのない出来事というのは、誰の人生にも起こるものです。偶発的なアクシデント。それが『いつかの夏』に描かれているような凶悪な犯罪ではない、という保証はどこにもありません。
この本を読んでいるとき、私は何度、ページをめくる手を止め、まぶたを閉じて、深呼吸をくり返したことでしょう。そうやって気持ちを鎮め、落ち着かせなければ、とてもつづきを読み進めていくことができないほど、この作品には恐ろしい犯罪の内容がつぶさに描かれています。まさに、身の毛もよだつような出来事。異常としか思えない、極悪非道な犯人たちの言動。けれどもこれは前述の通り、いつ、どこで、私たちの身に同じことが起こっても不思議ではない出来事でもあるのです。
この作品は私に、人間の孕んでいる「悪」というものを、まざまざと見せつけてくれました。きつく蓋をし、耳を塞ぎ、できれば見ないでいたい「悪」です。自分には関係ない。あるいは、一生、そういうものとは縁のない生活を送りたい。誰だって、そう思っていることでしょう。自分にはそういうことは起こりっこない、と。
でも、そうではないのです。恐ろしい「悪」は、私たちのすぐそばに、隣に、背後に、前途に、常に存在している(戦争が良い例です)。私たちは「悪」とは無関係ではいられない。つまり、この本には、私たちに深く関係のあることが書かれているのです。私たちはこの「悪」から目を背けたり、逸らしたりしてはいけないのだ、と、大崎さんは取材と執筆を通して身をもって悟ったことを、全身全霊で私たちに伝えようとしてくれているのです。

読み終えたとき、つまり、ひとりの作家がこれで引退してもいいと思うほど書ききった「悪」を読みきったとき、私の胸にふつふつと湧いてきた思いがありました。その思いの正体に気づいたとき、私は「ああ、これこそが大崎さんの書きたかったことに違いない」と確信するに至りました。
その思いの正体とは-------「生きることは、愛すること」です。
命を奪われる最後のその瞬間まで、お母さんを、恋人を、一心に愛し、生きることをあきらめず、悪を憎み、善を信じ、「生」を生き抜いたひとりの女性。その女性の生きざまを真正面から見つめて、ありとあらゆる角度からペンで描ききった作家の、言葉に対する、文章を書くことに対する情熱と信頼。書く人と書かれる人の、愛と信頼によるつながりを信じて、大崎さんは、被害者の女性や恋人や家族といっしょに「悪」に立ち向かったのだと思います。
美しいもの、おいしいもの、気持ちのいいもの。幸せ、笑顔、明るい未来。誰だって、そういうものが好きだし、そういうものだけに囲まれて生きていきたいと願っているはずです。けれども、醜いもの、汚れたもの、憎むべきものもまた、私たちのすぐそばに、ぽっかりと口をあけて、ときには私たちを「悪」の沼に飲み込もうとして、手ぐすねして待ち構えています。「悪」を封じ込め、「悪」に対抗するために、私たちにできることは「愛すること」「愛の力を信じること」-------これしかないように、私には思えてなりません。

『いつかの夏』をひとりでも多くの方々に読んでいただきたい。大崎さんが作家人生をかけて書いた、亡くなった磯谷利恵さんの「愛」を、ひとりでも多くの方々がみずからの手と胸で受け止め、そして、誰かに手渡して欲しい。天国の磯谷さんの魂に、平穏よ、在れ。そう叫びたくなるような思いに、私は今、とらわれています。
足かけ3年にわたって書かせていただいたこの連載エッセイ。本当にとても楽しい仕事でした。
愛読してくださったみなさま、大人すはだの編集長のKonomiさん、あきゅらいずのスタッフのみなさまに、心より感謝いたします。
さて、最終回の話題として、いったい何がふさわしいだろうかと考えた末に思い至った「愛について」、今の私が思っていることを書いてみたいと思います。
まず「生きることは、愛すること」というタイトルについて。
これは、サイン会で、私が自著にサインをするとき、読者の方々のお名前のそばに添えさせていただいている言葉です。ほかには「また会えたね!」「人生は愛」などがあります。いずれも私の好きな言葉です。「また会えたね!」は、若い読者向け。恋愛小説のテーマとして、好んで取り上げてきた「再会」を象徴しています。「生きることは、愛すること」と「人生は愛」については、去年、60歳(連載回数と同じですね)になった私の、等身大の思いでもあります。

生きることは、日々、愛すること。愛の対象は、人だけに限らなくていいと思っています。猫でも犬でも植物でも、本でも映画でも音楽でも、もちろん仕事でも恋人でも夫でも。ひとつだけじゃなくて、複数でもたくさんでも。でも、とにかく何かを、誰かを、毎日、お日様の光を浴びて光合成をするかのように、雨に濡れながらつぼみを膨らませるかのように、愛すること。これこそが「生きる」ということではないかと、このごろの私は思っているわけです。
そして、サブタイトルに掲げた『いつかの夏』(KADOKAWA刊)。
私の敬愛してやまない作家、大崎善生さんによって書かれた、最新のノンフィクション作品です。2007年の夏、残酷きわまりない犯罪の犠牲になり、若く美しい命を踏みにじられるようにして(このような表現では到底、足りていないと思えるほど無残なやり方で)奪われた、ひとりの女性とその家族、彼女の愛した人たちに捧げられた、鎮魂歌とも言えるような1冊です。

大崎さんは本書の出版に際して、「この作品がひとつのピリオド。『聖の青春』から始まった作家人生は、この物語を書くためだったのかもしれない。これで終わっても、引退してもいいと思うほど書ききった」というコメントを寄せています。
さまざまな偶然が重なって、ある日、あるとき、犯罪の標的になってしまったら、あなたはどうしますか?
どんなに気をつけていたって、避けようのない出来事というのは、誰の人生にも起こるものです。偶発的なアクシデント。それが『いつかの夏』に描かれているような凶悪な犯罪ではない、という保証はどこにもありません。
この本を読んでいるとき、私は何度、ページをめくる手を止め、まぶたを閉じて、深呼吸をくり返したことでしょう。そうやって気持ちを鎮め、落ち着かせなければ、とてもつづきを読み進めていくことができないほど、この作品には恐ろしい犯罪の内容がつぶさに描かれています。まさに、身の毛もよだつような出来事。異常としか思えない、極悪非道な犯人たちの言動。けれどもこれは前述の通り、いつ、どこで、私たちの身に同じことが起こっても不思議ではない出来事でもあるのです。
この作品は私に、人間の孕んでいる「悪」というものを、まざまざと見せつけてくれました。きつく蓋をし、耳を塞ぎ、できれば見ないでいたい「悪」です。自分には関係ない。あるいは、一生、そういうものとは縁のない生活を送りたい。誰だって、そう思っていることでしょう。自分にはそういうことは起こりっこない、と。
でも、そうではないのです。恐ろしい「悪」は、私たちのすぐそばに、隣に、背後に、前途に、常に存在している(戦争が良い例です)。私たちは「悪」とは無関係ではいられない。つまり、この本には、私たちに深く関係のあることが書かれているのです。私たちはこの「悪」から目を背けたり、逸らしたりしてはいけないのだ、と、大崎さんは取材と執筆を通して身をもって悟ったことを、全身全霊で私たちに伝えようとしてくれているのです。

読み終えたとき、つまり、ひとりの作家がこれで引退してもいいと思うほど書ききった「悪」を読みきったとき、私の胸にふつふつと湧いてきた思いがありました。その思いの正体に気づいたとき、私は「ああ、これこそが大崎さんの書きたかったことに違いない」と確信するに至りました。
その思いの正体とは-------「生きることは、愛すること」です。
命を奪われる最後のその瞬間まで、お母さんを、恋人を、一心に愛し、生きることをあきらめず、悪を憎み、善を信じ、「生」を生き抜いたひとりの女性。その女性の生きざまを真正面から見つめて、ありとあらゆる角度からペンで描ききった作家の、言葉に対する、文章を書くことに対する情熱と信頼。書く人と書かれる人の、愛と信頼によるつながりを信じて、大崎さんは、被害者の女性や恋人や家族といっしょに「悪」に立ち向かったのだと思います。
美しいもの、おいしいもの、気持ちのいいもの。幸せ、笑顔、明るい未来。誰だって、そういうものが好きだし、そういうものだけに囲まれて生きていきたいと願っているはずです。けれども、醜いもの、汚れたもの、憎むべきものもまた、私たちのすぐそばに、ぽっかりと口をあけて、ときには私たちを「悪」の沼に飲み込もうとして、手ぐすねして待ち構えています。「悪」を封じ込め、「悪」に対抗するために、私たちにできることは「愛すること」「愛の力を信じること」-------これしかないように、私には思えてなりません。

『いつかの夏』をひとりでも多くの方々に読んでいただきたい。大崎さんが作家人生をかけて書いた、亡くなった磯谷利恵さんの「愛」を、ひとりでも多くの方々がみずからの手と胸で受け止め、そして、誰かに手渡して欲しい。天国の磯谷さんの魂に、平穏よ、在れ。そう叫びたくなるような思いに、私は今、とらわれています。
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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui