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第59回 シンプルに暮らすということ(その3)素顔で生きる
2017.01. 9
「写真を撮るということは本来、とても恐ろしいことなのよ」
アメリカに来てから知り合って親しくなった、女性写真家の言葉である。

一枚の写真を撮るために、彼女は途方もなく長い時間をかける。一日中、粘りに粘って、結局、一枚も撮れないまま終わってしまう日もあるという。被写体と自分とのあいだに「撮るなら今しかない」と思える瞬間がやってくるまで、彼女はファインダーをのぞき続ける。
写真に限らず、これは、どんな芸術にも、どんな仕事にも言えることではないだろうか。私の場合、文章を書く、言葉で何かを表現する、ということは確かに、とても恐ろしいことのように思える。言いかえると、書くということに対する畏怖の念、畏敬の念を常に抱いている。ひとつの作品を完成させるためには、途方もなく長い時間がかかる。書くなら今だ、このことしかない、と思える瞬間を待つ、ということもまた、私の仕事の一部なのだと思う。

ところが、報道写真、あるいは、雑誌のインタビュー写真などの場合には、一枚の写真を撮るために、そんなに長い時間をかけることは、当然のことながらできない。それは重々わかっている。報道写真なら、かけることのできる時間はほんの数秒、ということもあるだろうし、インタビューなら、インタビュー中の30分、あるいは1時間か、せいぜいそれくらいだろう。
何を隠そう、私はこの「インタビュー写真」というのが、非常に苦手である。
何度、経験しても、撮られることを苦痛だと感じてしまう。その理由は、先に書いた「時間」と関係しているように思えてならない。つまり、カメラマンと私のあいだに、じゅうぶんな時間をかけた交流やコミュニケーションや相互理解のないままに、ただ「笑ってください」「そこに立って、目線はこちらへ」「自然な表情になるように、しゃべり続けていてください」などと、小学校の先生と生徒さながらに、指示・命令されながら撮影された写真が、納得のできるものであるはずはない。
ここで言う「納得」とは、あくまでも、撮られた側のそれである。
「えーっ! こんなの私じゃない」「こんな写真が雑誌に載るなんて、絶対にいや」「あれだけ撮ったのに、こんなのしかないわけー?」
などと、私が不満たらたらでも、カメラマンはその一枚に、いたって満足していることが多い。いや、撮ったあとのことなど、何も考えていないというべきか。
こういうことが積もりに積もって、私はすっかり写真(を撮られるのが)嫌いになってしまった。特に、新聞社の男性カメラマンが苦手である。

数年前、日本に帰国中、新聞社の取材を受けたときに撮影された写真が、それはもうとんでもなくひどいものだったので、新聞社に抗議をしたことがある。私の手持ちの写真に差し替えてください、とお願いしたが「これは報道ですので」とすげなく却下された。いつも疑問に思うことだが、写真を撮られる側の「報道されない権利」というものは、存在しないのだろうか。
新聞をはじめとする報道カメラマンの写真に、私が長年、満足できなかった理由として、先に書いた「時間」のほかには「愛情」があるのではないかと思う。なぜなら私は、夫が撮影してくれた自分の写真はどれも、けっこう気に入っているからである(手前味噌で申し訳ありません!)。被写体に対して、撮る側が愛情を抱いているかどうか。これも、いい写真を撮るための決め手ではないだろうかと、素人ながら思っている。
ちなみに、女性写真家の撮った写真には総じて、「これが私」「私よりも何倍もきれい」と満足できるものが多い。それは、とりもなおさず、同じ女性として、女性がどう撮られたいかをよく理解できているせいではないだろうか。愛情まではいかなくても、私に対して、ある種の共感を抱いて撮影してくれているからだろう。
しかし、ここまで書き進めてきて、私はもうひとつ、重要なことに気づいて、半ば愕然とする。もしかしたら、インタビュー写真を撮られるのがそんなにもいやだったのは、カメラマンのせいではなくて、私が私自身の顔に、しっかりとした自信を持てていないせいだったのではないか。
正直に書こう。それは確かに一理あった(ここは、過去形である)。アメリカでは、朝から晩まで、家の中でも外でも、素顔で過ごしている私。だけど、日本に帰国し、人前に出るときには、化粧をしていた。もちろん、インタビュー中は言うまでもなく。そのことによって、私は私の顔に対する自信を失ってしまっていたのかもしれない。
これは私の顔ではない。私の顔は、化粧の下に隠されている。このような思いがあるから、できあがった写真を見たとき「これは違う」と思ってしまうのだ。

そんな私に、自信を回復させてくれたものがある。あきゅらいずの美養品、「玉粉肌(たまごはだ)」である。お米ととうもろこしから作られているフェイスパウダーで、これをパフで肌に軽くすべらせるようにして付ける。もちろんファンデーションはいっさい塗らない。限りなく素顔に近い形のお化粧、と言えるだろうか。鏡を見ても「ああ、これはいつもの私だ」と思える。だから人前に出ても、写真を撮られても、堂々としていられる。
「玉粉肌」に巡り合ってから、インタビュー写真は以前ほど、いやではなくなった。けれど、やっぱり嫌いなものは嫌いだ。できることなら、撮られたくない。頑固な性格は変わっていない。女心をまったく理解しようとしない、新聞社の男性カメラマンが大嫌いである。「暴言を吐く」という言葉があるが、あれに近いような写真。新聞社は、撮られた人がいやがっているような暴言写真を載せるべきではない、と思うのは、私だけだろうか。
写真 グレン・サリバン
アメリカに来てから知り合って親しくなった、女性写真家の言葉である。

一枚の写真を撮るために、彼女は途方もなく長い時間をかける。一日中、粘りに粘って、結局、一枚も撮れないまま終わってしまう日もあるという。被写体と自分とのあいだに「撮るなら今しかない」と思える瞬間がやってくるまで、彼女はファインダーをのぞき続ける。
写真に限らず、これは、どんな芸術にも、どんな仕事にも言えることではないだろうか。私の場合、文章を書く、言葉で何かを表現する、ということは確かに、とても恐ろしいことのように思える。言いかえると、書くということに対する畏怖の念、畏敬の念を常に抱いている。ひとつの作品を完成させるためには、途方もなく長い時間がかかる。書くなら今だ、このことしかない、と思える瞬間を待つ、ということもまた、私の仕事の一部なのだと思う。

ところが、報道写真、あるいは、雑誌のインタビュー写真などの場合には、一枚の写真を撮るために、そんなに長い時間をかけることは、当然のことながらできない。それは重々わかっている。報道写真なら、かけることのできる時間はほんの数秒、ということもあるだろうし、インタビューなら、インタビュー中の30分、あるいは1時間か、せいぜいそれくらいだろう。
何を隠そう、私はこの「インタビュー写真」というのが、非常に苦手である。
何度、経験しても、撮られることを苦痛だと感じてしまう。その理由は、先に書いた「時間」と関係しているように思えてならない。つまり、カメラマンと私のあいだに、じゅうぶんな時間をかけた交流やコミュニケーションや相互理解のないままに、ただ「笑ってください」「そこに立って、目線はこちらへ」「自然な表情になるように、しゃべり続けていてください」などと、小学校の先生と生徒さながらに、指示・命令されながら撮影された写真が、納得のできるものであるはずはない。
ここで言う「納得」とは、あくまでも、撮られた側のそれである。
「えーっ! こんなの私じゃない」「こんな写真が雑誌に載るなんて、絶対にいや」「あれだけ撮ったのに、こんなのしかないわけー?」
などと、私が不満たらたらでも、カメラマンはその一枚に、いたって満足していることが多い。いや、撮ったあとのことなど、何も考えていないというべきか。
こういうことが積もりに積もって、私はすっかり写真(を撮られるのが)嫌いになってしまった。特に、新聞社の男性カメラマンが苦手である。

数年前、日本に帰国中、新聞社の取材を受けたときに撮影された写真が、それはもうとんでもなくひどいものだったので、新聞社に抗議をしたことがある。私の手持ちの写真に差し替えてください、とお願いしたが「これは報道ですので」とすげなく却下された。いつも疑問に思うことだが、写真を撮られる側の「報道されない権利」というものは、存在しないのだろうか。
新聞をはじめとする報道カメラマンの写真に、私が長年、満足できなかった理由として、先に書いた「時間」のほかには「愛情」があるのではないかと思う。なぜなら私は、夫が撮影してくれた自分の写真はどれも、けっこう気に入っているからである(手前味噌で申し訳ありません!)。被写体に対して、撮る側が愛情を抱いているかどうか。これも、いい写真を撮るための決め手ではないだろうかと、素人ながら思っている。
ちなみに、女性写真家の撮った写真には総じて、「これが私」「私よりも何倍もきれい」と満足できるものが多い。それは、とりもなおさず、同じ女性として、女性がどう撮られたいかをよく理解できているせいではないだろうか。愛情まではいかなくても、私に対して、ある種の共感を抱いて撮影してくれているからだろう。
しかし、ここまで書き進めてきて、私はもうひとつ、重要なことに気づいて、半ば愕然とする。もしかしたら、インタビュー写真を撮られるのがそんなにもいやだったのは、カメラマンのせいではなくて、私が私自身の顔に、しっかりとした自信を持てていないせいだったのではないか。
正直に書こう。それは確かに一理あった(ここは、過去形である)。アメリカでは、朝から晩まで、家の中でも外でも、素顔で過ごしている私。だけど、日本に帰国し、人前に出るときには、化粧をしていた。もちろん、インタビュー中は言うまでもなく。そのことによって、私は私の顔に対する自信を失ってしまっていたのかもしれない。
これは私の顔ではない。私の顔は、化粧の下に隠されている。このような思いがあるから、できあがった写真を見たとき「これは違う」と思ってしまうのだ。

そんな私に、自信を回復させてくれたものがある。あきゅらいずの美養品、「玉粉肌(たまごはだ)」である。お米ととうもろこしから作られているフェイスパウダーで、これをパフで肌に軽くすべらせるようにして付ける。もちろんファンデーションはいっさい塗らない。限りなく素顔に近い形のお化粧、と言えるだろうか。鏡を見ても「ああ、これはいつもの私だ」と思える。だから人前に出ても、写真を撮られても、堂々としていられる。
「玉粉肌」に巡り合ってから、インタビュー写真は以前ほど、いやではなくなった。けれど、やっぱり嫌いなものは嫌いだ。できることなら、撮られたくない。頑固な性格は変わっていない。女心をまったく理解しようとしない、新聞社の男性カメラマンが大嫌いである。「暴言を吐く」という言葉があるが、あれに近いような写真。新聞社は、撮られた人がいやがっているような暴言写真を載せるべきではない、と思うのは、私だけだろうか。
写真 グレン・サリバン
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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui