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NYの森からきれいに私生活
第57回 シンプルに暮らすということ(その1)多過ぎる選択肢
2016.12. 4
11月に3週間ほど、日本に一時帰国していました。東京でも京都でも岡山でも、美味しいものをいっぱい食べて、のんびり温泉にも浸かって、なつかしい友だちや愛読者の方々にも会って、まさに「竜宮城生活」を満喫したあと、今はニューヨーク州の静かな「森の生活」にもどったところです。

さて、1年ぶりの日本を見て、聞いて、歩いた私が感じたこと、考えたこと、疑問に思ったことなどを「シンプルライフの追求」をメインテーマに据えて、今回から、合計何回になるかわかりませんが、連続で書き綴っていきたいと思います。
シリーズ第1回の小タイトルはご覧の通り「多過ぎる選択肢」ですが、そのあとには、こんな言葉が続きます。
過剰さと豊かさを混同していませんか?
日本へもどるといつも、まず、情報の多さに圧倒されます。成田空港を皮切りにして、どこへ行っても、どの町にいても、駅にも路上にも街角にもお店にも、言ってしまえば日本全国津々浦々に、ありとあらゆる情報があふれ返っています。
情報イコール「無駄な言葉」と言い換えてもいいかと思います。そこにも、ここにも、無駄な言葉があふれています。たとえば、新幹線に乗っただけでも、車内には電光掲示板でニュースが流れていますし、プラットホーム、駅構内、列車内ではひっきりなしに「***しないで下さい」「***して下さい」「***にご注意下さい」「***はできません」などと、まるで小学校の先生が生徒に言い聞かせているかのような言葉がくり返されます。
思い返せば、私が日本で暮らしていた90年代の初め頃も、やはりこのようだったとは思うのですが、日本を離れて暮らすようになってからは、この情報過多、説明過多を、より強く実感するようになりました。

これは私の想像に過ぎませんが、列車内で、大の大人に向かって「忘れ物をしないでお降り下さい」とアナウンスする国は、おそらく、世界中で日本だけではないかと思うのですが、いかがでしょうか。のべつくまなしに垂れ流されている、不必要な情報や注意事項。それゆえに、本当に重要なことが頭に入ってこないような気がしてなりません。
日本はいったいいつから、こんなにも、情報、説明、言葉、注意事項の過剰な国になったのでしょうか。雨の日には「傘などの忘れ物をしないように」などとアナウンスされると、なんだか馬鹿にされているような気持ちになるのは、私だけなのでしょうか。
自分で書いたばかりの「過剰」という2文字を見て、まっさきに私の頭に思い浮かぶのはコンビニエンス・ストアです。略してコンビニ。小さくて便利なお店です。
もちろん私も、帰国中はいつもたいへんお世話になっています。お世話になっているのに批判的なことを書くのは、いかがなものかとは思います。しかし、書かずにはいられません。それほどまでに、このコンビニという存在は、私を戸惑わせるからです。もっと正確に書けば、私を戸惑わせているのは、コンビニ内にあふれる「過剰な商品」ということになります。
とにかく過剰なのです。シャンプーひとつ、コンディショナーひとつを買おうと思っているだけなのに、とにかく種類が多過ぎて、選択肢が多過ぎて、見ているだけで頭がくらくらしてきます。本当に必要な、たったひとつの品物を選ぶために、ここまで余計な商品を手に取って調べたり、比較したりしなくてはならないものでしょうか。

もしくは、この過剰さを「豊かさ」であり「便利さ」であると考える人が、日本には多いということなのでしょうか。
「豊かさ」とは、もっともっとシンプルなものではないかと、私は考えています。
たとえば、この品がひとつだけあれば、それでじゅうぶん、ほかには何も要らない、これさえあれば何も必要ない、そう思えるようなものこそが真に便利なものであり、その便利さはイコール豊かさだと思うし、同時に、便利なものとはそもそも簡素で、素朴でさえあると思うのです。
東京に滞在中、このウェブマガジンの編集長のKonomiさん(彼女は、私の旧友でもあります)から、あきゅらいずの美養品----「きのね シャンプー」、石けん「泡石(ほうせき)」、「秀くりーむ」など-----をプレゼントしていただきました。どの製品も素晴らしかったですが、中でも圧巻だったのは、「きのね シャンプー。
何しろ、このシャンプーだけで、髪の毛はさらさらで、つるつるで、ふわふわになるのです! 驚いたことに、コンディショナーも、トリートメントも、必要ない。翌朝の髪型のまとまりのいいこと。文字通り「これひとつ」でいいのです。和漢ハーブというナチュラルな素材から作られた、髪や頭皮にもいい製品。これこそが「豊かさ」だと感激しました。
限られた選択肢。しかしながら、その少ない選択肢がきわめて優れたものであれば、選ぶ時間や迷う時間は必要ではなくなります。情報に翻弄され、選択肢に戸惑わされ、買い物に消費せざるを得なくなるその時間を、もっと別のことに費やすことができます。何かを考えたり、感じたり、自分の意見を持ったり、本を読んだり、そういった、意義のあることに(電車内も、過剰なアナウンスなどない方が、忘れ物をしないようにと自分の頭で考えることができるはずです)。

情報のあふれる時代に、現代人がシンプルに暮らすということは、過剰で無駄な情報をできるだけ遠ざけること、時には意図的にシャットアウトすること、過剰で無駄な選択肢から身を、心を、時間を、生活を、守ることに他ならないのではないかと、窓の外に広がる森を眺めながら思っています。ここには、樹木が生えているだけです。本当に、木しかないのです。過剰な情報もなければ、多過ぎる選択肢もない。何も「ない」ことの豊かさを、シンプルさを、私は途方もなくかけがえのないものだと思っています。
(写真:グレン・サリバン)

さて、1年ぶりの日本を見て、聞いて、歩いた私が感じたこと、考えたこと、疑問に思ったことなどを「シンプルライフの追求」をメインテーマに据えて、今回から、合計何回になるかわかりませんが、連続で書き綴っていきたいと思います。
シリーズ第1回の小タイトルはご覧の通り「多過ぎる選択肢」ですが、そのあとには、こんな言葉が続きます。
過剰さと豊かさを混同していませんか?
日本へもどるといつも、まず、情報の多さに圧倒されます。成田空港を皮切りにして、どこへ行っても、どの町にいても、駅にも路上にも街角にもお店にも、言ってしまえば日本全国津々浦々に、ありとあらゆる情報があふれ返っています。
情報イコール「無駄な言葉」と言い換えてもいいかと思います。そこにも、ここにも、無駄な言葉があふれています。たとえば、新幹線に乗っただけでも、車内には電光掲示板でニュースが流れていますし、プラットホーム、駅構内、列車内ではひっきりなしに「***しないで下さい」「***して下さい」「***にご注意下さい」「***はできません」などと、まるで小学校の先生が生徒に言い聞かせているかのような言葉がくり返されます。
思い返せば、私が日本で暮らしていた90年代の初め頃も、やはりこのようだったとは思うのですが、日本を離れて暮らすようになってからは、この情報過多、説明過多を、より強く実感するようになりました。

これは私の想像に過ぎませんが、列車内で、大の大人に向かって「忘れ物をしないでお降り下さい」とアナウンスする国は、おそらく、世界中で日本だけではないかと思うのですが、いかがでしょうか。のべつくまなしに垂れ流されている、不必要な情報や注意事項。それゆえに、本当に重要なことが頭に入ってこないような気がしてなりません。
日本はいったいいつから、こんなにも、情報、説明、言葉、注意事項の過剰な国になったのでしょうか。雨の日には「傘などの忘れ物をしないように」などとアナウンスされると、なんだか馬鹿にされているような気持ちになるのは、私だけなのでしょうか。
自分で書いたばかりの「過剰」という2文字を見て、まっさきに私の頭に思い浮かぶのはコンビニエンス・ストアです。略してコンビニ。小さくて便利なお店です。
もちろん私も、帰国中はいつもたいへんお世話になっています。お世話になっているのに批判的なことを書くのは、いかがなものかとは思います。しかし、書かずにはいられません。それほどまでに、このコンビニという存在は、私を戸惑わせるからです。もっと正確に書けば、私を戸惑わせているのは、コンビニ内にあふれる「過剰な商品」ということになります。
とにかく過剰なのです。シャンプーひとつ、コンディショナーひとつを買おうと思っているだけなのに、とにかく種類が多過ぎて、選択肢が多過ぎて、見ているだけで頭がくらくらしてきます。本当に必要な、たったひとつの品物を選ぶために、ここまで余計な商品を手に取って調べたり、比較したりしなくてはならないものでしょうか。

もしくは、この過剰さを「豊かさ」であり「便利さ」であると考える人が、日本には多いということなのでしょうか。
「豊かさ」とは、もっともっとシンプルなものではないかと、私は考えています。
たとえば、この品がひとつだけあれば、それでじゅうぶん、ほかには何も要らない、これさえあれば何も必要ない、そう思えるようなものこそが真に便利なものであり、その便利さはイコール豊かさだと思うし、同時に、便利なものとはそもそも簡素で、素朴でさえあると思うのです。
東京に滞在中、このウェブマガジンの編集長のKonomiさん(彼女は、私の旧友でもあります)から、あきゅらいずの美養品----「きのね シャンプー」、石けん「泡石(ほうせき)」、「秀くりーむ」など-----をプレゼントしていただきました。どの製品も素晴らしかったですが、中でも圧巻だったのは、「きのね シャンプー。
何しろ、このシャンプーだけで、髪の毛はさらさらで、つるつるで、ふわふわになるのです! 驚いたことに、コンディショナーも、トリートメントも、必要ない。翌朝の髪型のまとまりのいいこと。文字通り「これひとつ」でいいのです。和漢ハーブというナチュラルな素材から作られた、髪や頭皮にもいい製品。これこそが「豊かさ」だと感激しました。
限られた選択肢。しかしながら、その少ない選択肢がきわめて優れたものであれば、選ぶ時間や迷う時間は必要ではなくなります。情報に翻弄され、選択肢に戸惑わされ、買い物に消費せざるを得なくなるその時間を、もっと別のことに費やすことができます。何かを考えたり、感じたり、自分の意見を持ったり、本を読んだり、そういった、意義のあることに(電車内も、過剰なアナウンスなどない方が、忘れ物をしないようにと自分の頭で考えることができるはずです)。

情報のあふれる時代に、現代人がシンプルに暮らすということは、過剰で無駄な情報をできるだけ遠ざけること、時には意図的にシャットアウトすること、過剰で無駄な選択肢から身を、心を、時間を、生活を、守ることに他ならないのではないかと、窓の外に広がる森を眺めながら思っています。ここには、樹木が生えているだけです。本当に、木しかないのです。過剰な情報もなければ、多過ぎる選択肢もない。何も「ない」ことの豊かさを、シンプルさを、私は途方もなくかけがえのないものだと思っています。
(写真:グレン・サリバン)
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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui