
ツイッターを始めて、ちょうど1年が過ぎた。メールは手紙みたいだから好きだけれど、フェイスブックをはじめとするSNSは苦手、そもそもネットサーフィンもほとんどしないという私が、ツイッターをこんなに長くつづけられるとは思っていなかったし、こんなに楽しいものだとも思っていなかった。自分でも驚いている。
ツイッターを始めたきっかけは、このエッセイのどこかの回にも書いた記憶がある。ずばり、自著の宣伝をするためだった。ちょうど『優しいライオン-----やなせたかし先生からの贈り物』(講談社)を上梓したばかりで、この本のことを、ひとりでも多くの方々に知っていただき、手に取っていただきたいと願って、ツイッターを始めることにした。「アメリカでは、作家がツイッターを使って、自分の本の宣伝をしているんだよ」と、夫からすすめられたのも大きな動機のひとつだった。

最初の頃、読んでくれている(=フォローしてくれている)のは担当編集者と親しい友人だけで、気に入ったツイートにハートのマークを付けてくれる人も、私のツイートをリツイートし拡散してくれる人もきわめて少なかった。フォロワーも10人くらいだった。自分の書いた本、手がけている仕事、自分の読んだ本の紹介などをしていた。つまりツイートの内容は身辺雑記、あるいは、読書日記みたいなものだった。
あるとき、猫好きな親友から送ってもらった可愛らしい猫の写真を使ってツイートしてみたところ、愛猫家たちからのフォローがぐんと増えた。そうか、こんなふうにしてフォロワーが増えていくんだなと感心した。写真の有無によって、反応が大きく違うことにも気づいた。文字だけのツイートは、なかなか読んでもらえないようなのである。

当然のことだけれど、宣伝だけのツイートも駄目。それはそうだろう。誰だって、宣伝ばかり読まされていたらいやになる。広告だけの新聞なんて、誰も購読したくない。だから、宣伝ばかりするのもやめた。
始めてから、数ヶ月くらいが過ぎていただろうか、あるときふと、短い詩のようなものを書いてみた。物書きとして、もともと詩からスタートした私だった。詩を書くのはまったく苦にならない。長編小説を書くかたわら、その日の散歩中、ぱっと心に浮かんだ思いや目にした風景を短い詩に書く。これは私にとって楽しいひとときになった。楽しいことは長つづきする。この時点で、ツイッターとはとてもいい関係を築けたような気がした。
ツイッターで詩を発表するようにしてから、フォロワーの数はまたたくまに増えた。あれよあれよというまに600人を越え、現在に至っている。世の中には、詩の好きな人が多いことにも驚かされた。

ちなみに、私自身は他の人のツイッターをまったくフォローしていない。なかには、何百、何千ものツイッターをフォローしている人もいるけれど、そんなことをしていたら、仕事をする時間も読書する時間もなくなってしまう。また、私のツイートにコメントを寄せてくれた人へも、返事のコメントはあえて送らないようにしている。このコメントの送り合いこそが、ツイッター上での「会話」と呼ばれているもので、その会話がオープンにされていることがSNSの大きな特徴(利点?)なのだとわかってはいるものの、私にとって「会話」とはあくまでも個人的なもの。オープンにするつもりは毛頭ない。
フォローもしない、会話もしない。そのかわりに、フォロワーの方々へは、ダイレクトメッセージ機能を使って、お礼のおたよりを送るようにしている。私の本を買って読んで下さっている人もたくさんいらっしゃるので、そういう方へは必ず「ありがとう」のメッセージをお届けする。本の感想をいただいたときには、本当にとてもうれしい。「これから小手鞠さんの作品を全作、読破するつもりです」なんていうメッセージをいただくと、涙がこぼれそうになる。このような読者の方々の声を直接、聞くことができるのは、ひとえにツイッターのおかげだと思っている。

ツイッターの恩恵はほかにもある。10月20日に刊行された『きみの声を聞かせて』(偕成社)を書くために、私のツイッター経験はなくてはならないものだった。
10年ほど前に書いた『エンキョリレンアイ』では、主人公の男女は書店で出会ったあと、日本とアメリカに離れ離れになり、メールで文通を重ねた。しかし、それから10年後に書いた『きみの声を聞かせて』では、主人公の少女と少年は、ツイッター(にそっくりなシステムを私が創作しました)で「出会う」のである。最近では、このような出会いの方が主流なのかもしれない。ツイッターで知り合ったこのふたりは、ツイッター上での交際を経て、現実の世界で「会う」ことができたのかどうか。作品を読んで、その答えを知っていただけたらうれしい。
「人と人のつながり、コミュニケーションのあり方をテーマにして、書いて下さい」というのが、編集者からの依頼だった。
人と人のつながり。誰かとつながる。あなたとつながりたい。
ツイッター上で非常によく見かけるのが、この「つながる」という言葉である。じかに会うことは、もしかしたら一生ないのかもしれない。そういう人と、ツイッターを通して「つながる」-----果たしてこの関係は、本当に「つながっている」と言えるのか。
私の答えは「否」である。ツイッターでのつながりは、真の意味でのつながりではないと私は思っている。でも、だからといって、この関係を否定しているわけではない。要は「言葉でつながっている薄い関係」ということだと思う。会ったこともないし、これからも会うこともない。本当の名前も知らない。だからこそ、ツイッター上で、人と人は限りなく優しい言葉を送り合うことができるのだろう。淡く、儚く、いつ消えるとも知れない「つながり」-----どちらかがツイッターを見なくなっただけで、この関係は消滅する。
そのようなつながりから始まるラブ・ストーリーも、きっとあるはずだ。淡いつながりから始まって、濃くて深くて切っても切れない関係に発展することだって、あるのかもしれない。エンキョリレンアイ、ならぬ、ツイッターレンアイを描いた『きみの声を聞かせて』。ツイッターでもときどき宣伝させてもらっている。
ツイッターを始めたきっかけは、このエッセイのどこかの回にも書いた記憶がある。ずばり、自著の宣伝をするためだった。ちょうど『優しいライオン-----やなせたかし先生からの贈り物』(講談社)を上梓したばかりで、この本のことを、ひとりでも多くの方々に知っていただき、手に取っていただきたいと願って、ツイッターを始めることにした。「アメリカでは、作家がツイッターを使って、自分の本の宣伝をしているんだよ」と、夫からすすめられたのも大きな動機のひとつだった。

最初の頃、読んでくれている(=フォローしてくれている)のは担当編集者と親しい友人だけで、気に入ったツイートにハートのマークを付けてくれる人も、私のツイートをリツイートし拡散してくれる人もきわめて少なかった。フォロワーも10人くらいだった。自分の書いた本、手がけている仕事、自分の読んだ本の紹介などをしていた。つまりツイートの内容は身辺雑記、あるいは、読書日記みたいなものだった。
あるとき、猫好きな親友から送ってもらった可愛らしい猫の写真を使ってツイートしてみたところ、愛猫家たちからのフォローがぐんと増えた。そうか、こんなふうにしてフォロワーが増えていくんだなと感心した。写真の有無によって、反応が大きく違うことにも気づいた。文字だけのツイートは、なかなか読んでもらえないようなのである。
当然のことだけれど、宣伝だけのツイートも駄目。それはそうだろう。誰だって、宣伝ばかり読まされていたらいやになる。広告だけの新聞なんて、誰も購読したくない。だから、宣伝ばかりするのもやめた。
始めてから、数ヶ月くらいが過ぎていただろうか、あるときふと、短い詩のようなものを書いてみた。物書きとして、もともと詩からスタートした私だった。詩を書くのはまったく苦にならない。長編小説を書くかたわら、その日の散歩中、ぱっと心に浮かんだ思いや目にした風景を短い詩に書く。これは私にとって楽しいひとときになった。楽しいことは長つづきする。この時点で、ツイッターとはとてもいい関係を築けたような気がした。
ツイッターで詩を発表するようにしてから、フォロワーの数はまたたくまに増えた。あれよあれよというまに600人を越え、現在に至っている。世の中には、詩の好きな人が多いことにも驚かされた。

ちなみに、私自身は他の人のツイッターをまったくフォローしていない。なかには、何百、何千ものツイッターをフォローしている人もいるけれど、そんなことをしていたら、仕事をする時間も読書する時間もなくなってしまう。また、私のツイートにコメントを寄せてくれた人へも、返事のコメントはあえて送らないようにしている。このコメントの送り合いこそが、ツイッター上での「会話」と呼ばれているもので、その会話がオープンにされていることがSNSの大きな特徴(利点?)なのだとわかってはいるものの、私にとって「会話」とはあくまでも個人的なもの。オープンにするつもりは毛頭ない。
フォローもしない、会話もしない。そのかわりに、フォロワーの方々へは、ダイレクトメッセージ機能を使って、お礼のおたよりを送るようにしている。私の本を買って読んで下さっている人もたくさんいらっしゃるので、そういう方へは必ず「ありがとう」のメッセージをお届けする。本の感想をいただいたときには、本当にとてもうれしい。「これから小手鞠さんの作品を全作、読破するつもりです」なんていうメッセージをいただくと、涙がこぼれそうになる。このような読者の方々の声を直接、聞くことができるのは、ひとえにツイッターのおかげだと思っている。

ツイッターの恩恵はほかにもある。10月20日に刊行された『きみの声を聞かせて』(偕成社)を書くために、私のツイッター経験はなくてはならないものだった。
10年ほど前に書いた『エンキョリレンアイ』では、主人公の男女は書店で出会ったあと、日本とアメリカに離れ離れになり、メールで文通を重ねた。しかし、それから10年後に書いた『きみの声を聞かせて』では、主人公の少女と少年は、ツイッター(にそっくりなシステムを私が創作しました)で「出会う」のである。最近では、このような出会いの方が主流なのかもしれない。ツイッターで知り合ったこのふたりは、ツイッター上での交際を経て、現実の世界で「会う」ことができたのかどうか。作品を読んで、その答えを知っていただけたらうれしい。
「人と人のつながり、コミュニケーションのあり方をテーマにして、書いて下さい」というのが、編集者からの依頼だった。
人と人のつながり。誰かとつながる。あなたとつながりたい。
ツイッター上で非常によく見かけるのが、この「つながる」という言葉である。じかに会うことは、もしかしたら一生ないのかもしれない。そういう人と、ツイッターを通して「つながる」-----果たしてこの関係は、本当に「つながっている」と言えるのか。
私の答えは「否」である。ツイッターでのつながりは、真の意味でのつながりではないと私は思っている。でも、だからといって、この関係を否定しているわけではない。要は「言葉でつながっている薄い関係」ということだと思う。会ったこともないし、これからも会うこともない。本当の名前も知らない。だからこそ、ツイッター上で、人と人は限りなく優しい言葉を送り合うことができるのだろう。淡く、儚く、いつ消えるとも知れない「つながり」-----どちらかがツイッターを見なくなっただけで、この関係は消滅する。
そのようなつながりから始まるラブ・ストーリーも、きっとあるはずだ。淡いつながりから始まって、濃くて深くて切っても切れない関係に発展することだって、あるのかもしれない。エンキョリレンアイ、ならぬ、ツイッターレンアイを描いた『きみの声を聞かせて』。ツイッターでもときどき宣伝させてもらっている。

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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui