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NYの森からきれいに私生活
第55回 パンダと戦争_____ワシントンDC小旅行記
2016.11. 5
昨年の日本帰国時に、上野動物園で初めてパンダを見て以来、「寝ても覚めてもパンダ」になってしまったのは、私ではなくてうちの夫。ツイッターに流れている無数のパンダアカウントのフォローをするかたわら、ワシントンDCにある国立動物園の公式サイトから発信されている、パンダのライブ映像にのめりこむ日々を過ごしている。

私はといえば、無類の動物好きではあるものの、悲しいかな「動物園」というものが、どうしても好きになれない。だから、上野動物園へ行ったのも夫ひとり。パンダはかわいいと思うけれど、それ以上に、私は動物園が苦手。それはさておき。
「複雑で厄介な電話業務をしているさいちゅうや、難しい仕事を終えてリラックスしたいときなんかに、パンダの動画を見ると心が和むし、癒されるんだよ」
ワシントンDCの国立動物園では、昨年の8月に生まれた赤ちゃんパンダのベイベイくんが大人気。お母さんパンダのメイシャンからお乳をもらって、すくすく成長しているという。
「そんなに好きなのだったら、ワシントンDCへ旅行に行こうよ!」
パンダに夢中になっている夫に、生きているパンダを見せてあげたい(動物園は嫌いだけど、夫のために譲歩して)。もちろん、そういう思いもあったのだが、実は私は私で、ワシントンDCへ行きたい理由があった。

ご存じの通り、ワシントンDCはアメリカの首都。アメリカに移住して20年以上が経っているが、私はまだ首都を訪れたことがなかった。ホワイトハウス、国会議事堂(連邦議会議事堂)、ワシントン記念塔、リンカーン記念館をはじめとする各種施設、そして、国立航空宇宙博物館、国立自然史博物館、ナショナルギャラリー、国立アメリカ歴史博物館などなどなど。それらが一堂に会するエリアは「モール」と呼ばれていて、1日〜3日では到底、全部を見て回れない広さと規模を誇っている。しかも、すべての施設、博物館、美術館の入場料は、無料。もちろん動物園も。さすがはアメリカ。なんでも巨大で、太っ腹。そんなわけで、高速道路に愛車を走らせること4時間あまり。行ってきました。パンダも見てきました。3泊4日のワシントンDC旅行。
初日はパンダ。2日目は美術館と博物館。3日目は戦争。
戦争? そうなんです、これが私のこの旅における最大の目的。モールの中心に立つワシントン記念塔からリンカーン記念館へとつづく長い道の途中にある「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」。今年になってから、ベトナム戦争をテーマにした作品を書き始めていたこともあって、私はどうしてもこの慰霊碑をこの目で見たいと思っていた。
「どこにあるんだろう? おかしいねぇ、確かあのあたりにあるはずなのに」

まるで青空を突き刺しているかのようにそびえ立つ白亜のワシントン記念碑を背にして、なんとも派手派手しい第二次世界大戦の記念碑を通り抜け、鴨たちの泳ぐ人工池のそばを、これまた派手派手しいリンカーン像に向かって、歩けども歩けども、なかなか見えてこない。それもそのはず、ほかの戦争記念碑と違って、ベトナム戦争戦没者の慰霊碑は半分、地下に埋もれるような格好で築かれていたのである。
黒いみかげ石で造られた2枚の長方形の壁が中央部分で接合され、そこから左右に広がるようにして立っている。壁の高さは3メートルくらい。壁の全長は150メートルにも及んでいる。2枚の壁の全面にぎっしりと、隙間もなく刻まれているのは、ベトナム戦争で戦死した58249人(うち女性は8人)のアメリカ人兵士たちの名前。名前の冒頭にはダイヤの印が、約1200人の行方不明者の名前の冒頭には十字架が刻印されていて、行方不明者の死が確認されたとき、十字架はダイヤに変更されるという。
ちなみに、兵士たちの名前はアルファベット順に並んでいるのではない。壁の中央から右端へ向かって、戦死した順番に刻み込まれている。右の先端まで進んだところで、そのつづきは、壁の左の先端に刻まれている。私たちは、中央から右の壁の端まで進んだあと、来た道をもどり、左の壁の左端まで進み、そこから中央までを歩くことになる。最初に亡くなった兵士と、最後に亡くなった兵士が、壁の中央で出会うという構成になっているのである。

この記念碑のデザインは、1421点の応募作品のなかから、1981年4月におこなわれた最終審査によって選ばれた中国系アメリカ人のマヤ・リンさん(当時、大学の建築学科で学ぶ20歳の女性)の作品。彼女がアメリカではマイノリティのアジア系の女性であったということから、当初は一部の帰還兵たちからこの碑に対して、異議申し立てがなされたとか。また、手痛い敗北を喫した戦争であったことを強調するかのように、その他の戦争の記念碑がどれも「どこからでも目立つ派手派手しい白い塔」であるのとは対照的に、地下に半分、埋もれた黒い壁は地味で寂しい。
この地味さこそが、戦争の悲しみをあますところなく表現できているように、私には見えたし、そう思えた。戦死者全員の名前を、亡くなった順に刻み込む、というアイディアは「それぞれの死を個別に悼む、と同時に全体的にも悼む」という意味において、非常に画期的なものだと思う。また、壁の前面の下(地面に接している位置)には、雨樋みたいなスペースが設けられていて、そこには、遺族から死者に宛てた手紙、戦死者とその家族の写真、勲章、メダル、ベルトや軍靴、ぬいぐるみ、十字架、花などが自由に飾れるようになっている。このことによって、訪れた人々は、亡くなった兵士たちの遺族の悲しみをも目の当たりにし、その一端を共有することもできるだろう。

しかしながら、この黒い壁にはひとつだけ、大きく欠けているものがある、と、私は感じた。それは、ベトナム戦争で亡くなったベトナム人の名前(一説によると、約300万人)は、どこにも記されていないということ。この黒い壁は「アメリカ人が、アメリカ人兵士を悼むために」造られたものなのだということ。
ベトナム戦争は、アメリカとベトナムだけの戦争ではなかった。日本もまた、ベトナム戦争のために基地や武器を提供することで、飛躍的な経済発展を遂げた。太平洋戦争終結後、平和国家であると言われている日本だが、間接的には、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも参戦していた、と言っても過言ではない。一日本人として私は、このことを決して看過したくないと思っている。戦争のない時代、そして、パンダが動物園ではなくて、野生動物として、森や山で平和に暮らせる時代が来ることを、願ってやまない私である。

私はといえば、無類の動物好きではあるものの、悲しいかな「動物園」というものが、どうしても好きになれない。だから、上野動物園へ行ったのも夫ひとり。パンダはかわいいと思うけれど、それ以上に、私は動物園が苦手。それはさておき。
「複雑で厄介な電話業務をしているさいちゅうや、難しい仕事を終えてリラックスしたいときなんかに、パンダの動画を見ると心が和むし、癒されるんだよ」
ワシントンDCの国立動物園では、昨年の8月に生まれた赤ちゃんパンダのベイベイくんが大人気。お母さんパンダのメイシャンからお乳をもらって、すくすく成長しているという。
「そんなに好きなのだったら、ワシントンDCへ旅行に行こうよ!」
パンダに夢中になっている夫に、生きているパンダを見せてあげたい(動物園は嫌いだけど、夫のために譲歩して)。もちろん、そういう思いもあったのだが、実は私は私で、ワシントンDCへ行きたい理由があった。

ご存じの通り、ワシントンDCはアメリカの首都。アメリカに移住して20年以上が経っているが、私はまだ首都を訪れたことがなかった。ホワイトハウス、国会議事堂(連邦議会議事堂)、ワシントン記念塔、リンカーン記念館をはじめとする各種施設、そして、国立航空宇宙博物館、国立自然史博物館、ナショナルギャラリー、国立アメリカ歴史博物館などなどなど。それらが一堂に会するエリアは「モール」と呼ばれていて、1日〜3日では到底、全部を見て回れない広さと規模を誇っている。しかも、すべての施設、博物館、美術館の入場料は、無料。もちろん動物園も。さすがはアメリカ。なんでも巨大で、太っ腹。そんなわけで、高速道路に愛車を走らせること4時間あまり。行ってきました。パンダも見てきました。3泊4日のワシントンDC旅行。
初日はパンダ。2日目は美術館と博物館。3日目は戦争。
戦争? そうなんです、これが私のこの旅における最大の目的。モールの中心に立つワシントン記念塔からリンカーン記念館へとつづく長い道の途中にある「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」。今年になってから、ベトナム戦争をテーマにした作品を書き始めていたこともあって、私はどうしてもこの慰霊碑をこの目で見たいと思っていた。
「どこにあるんだろう? おかしいねぇ、確かあのあたりにあるはずなのに」

まるで青空を突き刺しているかのようにそびえ立つ白亜のワシントン記念碑を背にして、なんとも派手派手しい第二次世界大戦の記念碑を通り抜け、鴨たちの泳ぐ人工池のそばを、これまた派手派手しいリンカーン像に向かって、歩けども歩けども、なかなか見えてこない。それもそのはず、ほかの戦争記念碑と違って、ベトナム戦争戦没者の慰霊碑は半分、地下に埋もれるような格好で築かれていたのである。
黒いみかげ石で造られた2枚の長方形の壁が中央部分で接合され、そこから左右に広がるようにして立っている。壁の高さは3メートルくらい。壁の全長は150メートルにも及んでいる。2枚の壁の全面にぎっしりと、隙間もなく刻まれているのは、ベトナム戦争で戦死した58249人(うち女性は8人)のアメリカ人兵士たちの名前。名前の冒頭にはダイヤの印が、約1200人の行方不明者の名前の冒頭には十字架が刻印されていて、行方不明者の死が確認されたとき、十字架はダイヤに変更されるという。
ちなみに、兵士たちの名前はアルファベット順に並んでいるのではない。壁の中央から右端へ向かって、戦死した順番に刻み込まれている。右の先端まで進んだところで、そのつづきは、壁の左の先端に刻まれている。私たちは、中央から右の壁の端まで進んだあと、来た道をもどり、左の壁の左端まで進み、そこから中央までを歩くことになる。最初に亡くなった兵士と、最後に亡くなった兵士が、壁の中央で出会うという構成になっているのである。

この記念碑のデザインは、1421点の応募作品のなかから、1981年4月におこなわれた最終審査によって選ばれた中国系アメリカ人のマヤ・リンさん(当時、大学の建築学科で学ぶ20歳の女性)の作品。彼女がアメリカではマイノリティのアジア系の女性であったということから、当初は一部の帰還兵たちからこの碑に対して、異議申し立てがなされたとか。また、手痛い敗北を喫した戦争であったことを強調するかのように、その他の戦争の記念碑がどれも「どこからでも目立つ派手派手しい白い塔」であるのとは対照的に、地下に半分、埋もれた黒い壁は地味で寂しい。
この地味さこそが、戦争の悲しみをあますところなく表現できているように、私には見えたし、そう思えた。戦死者全員の名前を、亡くなった順に刻み込む、というアイディアは「それぞれの死を個別に悼む、と同時に全体的にも悼む」という意味において、非常に画期的なものだと思う。また、壁の前面の下(地面に接している位置)には、雨樋みたいなスペースが設けられていて、そこには、遺族から死者に宛てた手紙、戦死者とその家族の写真、勲章、メダル、ベルトや軍靴、ぬいぐるみ、十字架、花などが自由に飾れるようになっている。このことによって、訪れた人々は、亡くなった兵士たちの遺族の悲しみをも目の当たりにし、その一端を共有することもできるだろう。

しかしながら、この黒い壁にはひとつだけ、大きく欠けているものがある、と、私は感じた。それは、ベトナム戦争で亡くなったベトナム人の名前(一説によると、約300万人)は、どこにも記されていないということ。この黒い壁は「アメリカ人が、アメリカ人兵士を悼むために」造られたものなのだということ。
ベトナム戦争は、アメリカとベトナムだけの戦争ではなかった。日本もまた、ベトナム戦争のために基地や武器を提供することで、飛躍的な経済発展を遂げた。太平洋戦争終結後、平和国家であると言われている日本だが、間接的には、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも参戦していた、と言っても過言ではない。一日本人として私は、このことを決して看過したくないと思っている。戦争のない時代、そして、パンダが動物園ではなくて、野生動物として、森や山で平和に暮らせる時代が来ることを、願ってやまない私である。

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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui