
第52回の続編です。言葉の話をもう少し。
アメリカで暮らしている関係上、年に一度か二度の帰国時を除いて、仕事関係者や友人や知人とは、メールで連絡を取り合っている。過去には、たまに電話で話すこともあったが、日本とアメリカには13時間(夏場は14時間)の時差があるため、時間の調整が難しく、また、私は極端なほどの「電話嫌い」でもあるので、電話はもうほとんど使っていない。
というわけで、メールが私にとっての唯一のコミュニケーション手段となって、久しい。手紙と違って、届くまでに長い時間もかからないし、ファックスと違って、送受信がいとも簡単にできる。おまけに、原稿や写真の添付までできるようになった。こんなに便利で有り難いものはない。かつて、郵送と電話とファックスで仕事を進めていた頃を思い出すと、時代は、亀から飛行機(うさぎではなくて)になったのだなぁと思う。
しかしながら、このメールという文明の利器。これがなかなかの曲者でもあって、ときどき、予期せぬ事故が起こることがある。軽い接触事故のこともあるけれど、それがもとになって、正面衝突さながらの大事故に発展してしまうことだってある。

数ヶ月ほど前だったか、こんな事故に巻き込まれた。長い話を短くまとめると、ある仕事に関して、メールで編集者と意見交換をしているとき、私の送ったメールが彼の逆鱗に触れた、ということになる。
ご存じの通り、メールは「手紙」という顔も持っているし、「会話」という顔も持っている。仕事関係者へのメールは、長くても短くても、私はいつもビジネスレターを書くようにして書いている。砕けた表現は使わない。丁寧に、慎重に、言葉を取捨選択し、特に反対意見を述べるときには決して、声高に主張したり、自分の主張を押し通そうとしたりしないように、注意に注意を重ね、どこまでも優しく、あくまでも柔らかく、言葉づかいに気をつけて……
書いたつもりのメールに、彼から怒りの返信が届いた。ほとんど激怒に近かった。本当にびっくりした。まさに、びっくり仰天。目をぱちくりさせてしまった。
疑心暗鬼に満ち満ちた内容だった。私の書いた言葉をすべて、針小棒大に解釈している。「自分は編集者として、あなたに信頼されていないようだ。このままでは仕事がやりづらい」というような文もあり、最後は「なお、このメールへのご返信には及びません」と結ばれていた。

さて、どうしたものか? どのような返事を書くべきか、と、私は悩んだ。落ち込んでもいた。「返信には及ばない」と言っているのだから、素直に受け止めて、返事はしない方がいいのか。いや、そうではない。これは「すぐに返事をくれ」という意味で書かれている「返事はいらない」に違いない。
逡巡しながら、私は、彼から届いたメールと私の書いたメールを、すみからすみまで、何度も読み返してみた。そうこうするうちに、気づいた。彼を怒らせたのは、私が反対意見を述べたあとに何度か添えていた「妥協します」という言葉だったのだと。
「妥協」という言葉には、対立関係にある二者、または片方が譲歩し、穏やかに事をまとめること、という意味がある(と、私は思っていた)。つまり私は、彼の意見にはあくまでも反対で、心から同意したり、賛同したりすることはできないものの、最終的にはそれを受け入れること、妥協することならできる、という意味で「妥協します」と添えたつもりだった。
けれども、これはあくまでも私の推察に過ぎないが、彼にとって「妥協」という言葉には、私の思いも及ばないような別の意味が存在していたのではないかと思う。言いかえると、彼にとって、人に妥協されるということは、馬鹿にされたということにも等しく、私にプライドを傷つけられたと感じてしまったのだろう。
「妥協」という言葉ひとつをとっても、人によって、受け取る意味も違えば、感じ方も違う。ここに、書き言葉によるコミュニケーション、つまり、メールの落とし穴があると思った。もしも同じことを、直接、会って話していれば、ここまでの誤解は生じなかったはずだ。私が「妥協します」と仮に言ったとしても、彼の反応次第で、私は即座に「あ、そういう意味じゃありません。こういう意味で言いました」と言い直したり、言葉を添えたりすることができる。

「返信には及ばない」と書かれた彼の言葉に、私は「返事がほしい、今すぐに」という意味がこもっている、と読み取ることができたが、私なら、返事が欲しいときには「欲しい」とストレートに書く。
さて、彼から届いた激怒のメールに対して、私はどのような返事を書いたのか。
私だって、彼の言葉に傷ついていた。心臓はバクバクしていたし、メールを読んだあとは、ちょうどそのとき書いていた原稿のつづきもまったく書けなくなり、頭を抱えて、うろたえてしまった。私は普通、二度と読み返したくないメールが届くと、すぐに「永久削除」のキーを押してしまう癖がある。しかし、これは仕事関係のメールだから、保存しておくべきだろう。そう思うと、ぱっと消すこともできない。
普段はあまりそういうことはしないのだが、このときばかりは夫に相談した。夫は言った。「風林火山で対処せよ」と。風のようにすみやかに、林のように静かに、火のような(仕事に対する)熱意をこめて、返事を書いたら、あとは山のように落ち着いて、どっしりしていればいい、と。
なるほどと思って、その通りにやってみた。彼の怒り、「妥協」という言葉に対する説明や釈明、謝罪(私が謝る必要は本来ない)、彼の誤解に対する私の怒り、私の感情、そのようなものはいっさい排除し、とにかく仕事を前に進めていくために必要なことだけを書いて、送った。ビジネスライクに、丁寧に。
私から送った、お茶漬けみたいにさらさらしたメールを読んで、彼の気持ちはほどけたのか、あるいは、拍子抜けしたのか、その後の仕事はふたたび順調に進行し始めた。夫と武田信玄に感謝しながら、ほっと胸を撫でおろしたものの、私の胸にはまだ、やけどの跡が生々しく残っている。

言葉というのは諸刃の剣だ。振りおろしても、振りかざしても、人を傷つける。そして同時に、自分も傷ついてしまう。彼は案外、私の書いた言葉よりも、自分自身の書いた怒りの言葉に傷ついているのかもしれない。
写真:グレン・サリバン
アメリカで暮らしている関係上、年に一度か二度の帰国時を除いて、仕事関係者や友人や知人とは、メールで連絡を取り合っている。過去には、たまに電話で話すこともあったが、日本とアメリカには13時間(夏場は14時間)の時差があるため、時間の調整が難しく、また、私は極端なほどの「電話嫌い」でもあるので、電話はもうほとんど使っていない。
というわけで、メールが私にとっての唯一のコミュニケーション手段となって、久しい。手紙と違って、届くまでに長い時間もかからないし、ファックスと違って、送受信がいとも簡単にできる。おまけに、原稿や写真の添付までできるようになった。こんなに便利で有り難いものはない。かつて、郵送と電話とファックスで仕事を進めていた頃を思い出すと、時代は、亀から飛行機(うさぎではなくて)になったのだなぁと思う。
しかしながら、このメールという文明の利器。これがなかなかの曲者でもあって、ときどき、予期せぬ事故が起こることがある。軽い接触事故のこともあるけれど、それがもとになって、正面衝突さながらの大事故に発展してしまうことだってある。

数ヶ月ほど前だったか、こんな事故に巻き込まれた。長い話を短くまとめると、ある仕事に関して、メールで編集者と意見交換をしているとき、私の送ったメールが彼の逆鱗に触れた、ということになる。
ご存じの通り、メールは「手紙」という顔も持っているし、「会話」という顔も持っている。仕事関係者へのメールは、長くても短くても、私はいつもビジネスレターを書くようにして書いている。砕けた表現は使わない。丁寧に、慎重に、言葉を取捨選択し、特に反対意見を述べるときには決して、声高に主張したり、自分の主張を押し通そうとしたりしないように、注意に注意を重ね、どこまでも優しく、あくまでも柔らかく、言葉づかいに気をつけて……
書いたつもりのメールに、彼から怒りの返信が届いた。ほとんど激怒に近かった。本当にびっくりした。まさに、びっくり仰天。目をぱちくりさせてしまった。
疑心暗鬼に満ち満ちた内容だった。私の書いた言葉をすべて、針小棒大に解釈している。「自分は編集者として、あなたに信頼されていないようだ。このままでは仕事がやりづらい」というような文もあり、最後は「なお、このメールへのご返信には及びません」と結ばれていた。

さて、どうしたものか? どのような返事を書くべきか、と、私は悩んだ。落ち込んでもいた。「返信には及ばない」と言っているのだから、素直に受け止めて、返事はしない方がいいのか。いや、そうではない。これは「すぐに返事をくれ」という意味で書かれている「返事はいらない」に違いない。
逡巡しながら、私は、彼から届いたメールと私の書いたメールを、すみからすみまで、何度も読み返してみた。そうこうするうちに、気づいた。彼を怒らせたのは、私が反対意見を述べたあとに何度か添えていた「妥協します」という言葉だったのだと。
「妥協」という言葉には、対立関係にある二者、または片方が譲歩し、穏やかに事をまとめること、という意味がある(と、私は思っていた)。つまり私は、彼の意見にはあくまでも反対で、心から同意したり、賛同したりすることはできないものの、最終的にはそれを受け入れること、妥協することならできる、という意味で「妥協します」と添えたつもりだった。
けれども、これはあくまでも私の推察に過ぎないが、彼にとって「妥協」という言葉には、私の思いも及ばないような別の意味が存在していたのではないかと思う。言いかえると、彼にとって、人に妥協されるということは、馬鹿にされたということにも等しく、私にプライドを傷つけられたと感じてしまったのだろう。
「妥協」という言葉ひとつをとっても、人によって、受け取る意味も違えば、感じ方も違う。ここに、書き言葉によるコミュニケーション、つまり、メールの落とし穴があると思った。もしも同じことを、直接、会って話していれば、ここまでの誤解は生じなかったはずだ。私が「妥協します」と仮に言ったとしても、彼の反応次第で、私は即座に「あ、そういう意味じゃありません。こういう意味で言いました」と言い直したり、言葉を添えたりすることができる。

「返信には及ばない」と書かれた彼の言葉に、私は「返事がほしい、今すぐに」という意味がこもっている、と読み取ることができたが、私なら、返事が欲しいときには「欲しい」とストレートに書く。
さて、彼から届いた激怒のメールに対して、私はどのような返事を書いたのか。
私だって、彼の言葉に傷ついていた。心臓はバクバクしていたし、メールを読んだあとは、ちょうどそのとき書いていた原稿のつづきもまったく書けなくなり、頭を抱えて、うろたえてしまった。私は普通、二度と読み返したくないメールが届くと、すぐに「永久削除」のキーを押してしまう癖がある。しかし、これは仕事関係のメールだから、保存しておくべきだろう。そう思うと、ぱっと消すこともできない。
普段はあまりそういうことはしないのだが、このときばかりは夫に相談した。夫は言った。「風林火山で対処せよ」と。風のようにすみやかに、林のように静かに、火のような(仕事に対する)熱意をこめて、返事を書いたら、あとは山のように落ち着いて、どっしりしていればいい、と。
なるほどと思って、その通りにやってみた。彼の怒り、「妥協」という言葉に対する説明や釈明、謝罪(私が謝る必要は本来ない)、彼の誤解に対する私の怒り、私の感情、そのようなものはいっさい排除し、とにかく仕事を前に進めていくために必要なことだけを書いて、送った。ビジネスライクに、丁寧に。
私から送った、お茶漬けみたいにさらさらしたメールを読んで、彼の気持ちはほどけたのか、あるいは、拍子抜けしたのか、その後の仕事はふたたび順調に進行し始めた。夫と武田信玄に感謝しながら、ほっと胸を撫でおろしたものの、私の胸にはまだ、やけどの跡が生々しく残っている。

言葉というのは諸刃の剣だ。振りおろしても、振りかざしても、人を傷つける。そして同時に、自分も傷ついてしまう。彼は案外、私の書いた言葉よりも、自分自身の書いた怒りの言葉に傷ついているのかもしれない。
写真:グレン・サリバン
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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui