
野中ともそさんの書いた長編小説『虹の巣』(角川書店)を読んだ。

恐ろしい小説だった。
私の基準で「恐ろしい」という形容詞は、最上級のほめ言葉である。
「素晴らしかった」も「おもしろかった」も、私にとっては「普通だった」を意味する。だいたい、素晴らしくて、おもしろい作品を書くのは、作家として当たり前のことではないか。「夢中になって読んだ」-----こう言われても、私はあんまりうれしくない。そうでなかったらおかしい、と思ってしまう。「一気に読んだ」-----もしも、私の作品に対してこう言われたならば、これは私にとっては非常に残念な言葉である。一気になんて、読んで欲しくない。途方もなく長い時間をかけて、苦労に苦労を重ねに重ねて書いたのだ。むしろ「とても一気には読めませんでした」と言われたい。
というような繰り言は脇へ置いておき。
野中ともそさんは私の友人である。アメリカに来てから知り合った。同じニューヨーク州の、私は北部の田舎で、彼女は大都会マンハッタンで暮らしている。これはまったくの偶然なのだが、ふたりとも今年で在米歴24年になる。
共通の知人を介して出会ったのは、かれこれ5、6くらい前のことだったか。同じアメリカで暮らす日本人同士ということもあり、初対面のときからすっかり意気投合し、私が所用でマンハッタンまで出向いていったときにはお目にかかって、四方山話に花を咲かせてきた。『サンカクカンケイ』(新潮文庫)の解説は野中さんにお願いし、私は『銀河を、木の葉のボートで』(双葉文庫)の解説を書かせていただいた。
『虹の巣』は、400百字詰めの原稿用紙に換算すると、700枚にも及ぶ長編小説である。ちょっと殺人にも似た事件は起こるが、この作品はミステリーではないと私は思った。また、一読するといかにもそう思えてしまうかもしれないが、この作品のテーマは「母と子」ではない。母と子の葛藤を描いた、ミステリータッチの小説。そのような単純な言葉でこの作品を言い切ってしまうことなど、私にはできない。それはとても愚かなことだとも思う。
読了後、ふっと頭に浮かんできたのは、トルーマン・カポーティの名作『冷血』である。『冷血』はノンフィクションの形を借りた小説、いわゆるノンフィクションノベルだけれど、『虹の巣』は小説の形を借りたノンフィクション、つまりこれはすべて本当にあった話の再現なのかと思わされるような、ただならぬ現実感を漂わせている。
作中に出てくる登場人物、女性たち、母親たち、男性たち、幼子、少女、そのひとりひとりが圧倒的な存在感を持って迫ってくる。彼女たち、彼らが、作家の筆によって創られた人物であるとは到底、思えなくなってくる。また、過去のある場面をあざやかに切り取って、なおかつそこに読者を深く潜り込ませていく手法、重層的な構成も圧巻である。それを可能にしているのは、野中さんの文章であり、表現力であり、削ぎ落とされているのに饒舌な文体である。
しかし、私が冒頭に「恐ろしい小説」と書いた理由は、これらにとどまらない。
この小説が恐ろしいまでの魅力をたたえているのは、ここに描かれているすべての登場人物の内面が、私自身のそれに、恐ろしいほどぴたりと重なっているからだ。こういう場合「感情移入」という言葉が巷ではよく使われているけれど、それとは違う。感情は、どの人物にも移入できない。むしろ、違和感を覚えつづける。我が子をただ「自分が産んだ」という事実だけで、母親はこれほどまでに子に執着できるものなのか、と。

突き放しながら読み進めていくうちに、ふと気づいたら「私は子どもを産んだことがないから、母親の気持ちはわからない」とは言えなくなっている。
子どもを産んだことがあってもなくても、自分を見失うような恋愛にのめり込んだことがあってもなくても、自分が女であって男ではなくても、女優でなくてもお手伝いさんでなくても「ああ、私もこんなふうに何かに、誰かに、執着してしまうことは絶対にある」と、確信できる。私もそういう危険性を内面に孕んで生きている。
理由は、私が人間だから。愛する者への献身の蓑をかぶった執着。それは、人間が人間である限り、自己愛の裏返しとして、必ず持っているものであるように思えてならない。
だから、恐ろしかった。読めば読むほどに、私もここに登場する母親(複数、出てきますが、そのうちの誰か、というよりも、すべての女性、そして男性)になった可能性が、なる可能性がある、と思えてくる。だから怖かった。
このエッセイを書くにあたって、友人の特権を利用し、野中さんにインタビューを試みた。野中さんは私からのぶしつけな質問-----この作品のテーマは?-----に対して、こんなふうに語ってくれた。
「最初に浮かんだ自分のなかでのテーマは『寵愛と献身』でした。悪意はないのに、何かのきっかけで、相手に注ぐ寵愛も献身も、あるべき姿からねじれてしまうことがある。そのねじれを描いてみたいと思いました。人間と人間のつながりを描くことにずっと取り憑かれているので」
そうなのだ。『虹の巣』は「母と子の確執や葛藤」あるいは「母性とは何か」には決してとどまらない、人間の本質、人と人の関係の根源に潜んでいる罠のようなもの、人が人であるがゆえに逃れることのできない性(さが)に、ざっくりとメスを入れるようにして書かれた、世にも恐ろしい文学作品なのである。
そんな小説に、『虹の巣』という、美しく、儚げなタイトルをつけてしまえる野中さんのセンスに、私は脱帽する。人間が一生をかけて築いたつもりになっているものは、実は鳥の巣のように軽くて、もろくて、壊れやすい。けれども、ひな鳥たちが巣立ったあとの空っぽの巣には、まるで人々の営みのひとすじの痕跡のようにも見える美しい虹がかかっていることも、ごくまれにある。このタイトルを、私はそんなふうに受け止めた。

恐ろしい小説だった。
私の基準で「恐ろしい」という形容詞は、最上級のほめ言葉である。
「素晴らしかった」も「おもしろかった」も、私にとっては「普通だった」を意味する。だいたい、素晴らしくて、おもしろい作品を書くのは、作家として当たり前のことではないか。「夢中になって読んだ」-----こう言われても、私はあんまりうれしくない。そうでなかったらおかしい、と思ってしまう。「一気に読んだ」-----もしも、私の作品に対してこう言われたならば、これは私にとっては非常に残念な言葉である。一気になんて、読んで欲しくない。途方もなく長い時間をかけて、苦労に苦労を重ねに重ねて書いたのだ。むしろ「とても一気には読めませんでした」と言われたい。
というような繰り言は脇へ置いておき。
野中ともそさんは私の友人である。アメリカに来てから知り合った。同じニューヨーク州の、私は北部の田舎で、彼女は大都会マンハッタンで暮らしている。これはまったくの偶然なのだが、ふたりとも今年で在米歴24年になる。
共通の知人を介して出会ったのは、かれこれ5、6くらい前のことだったか。同じアメリカで暮らす日本人同士ということもあり、初対面のときからすっかり意気投合し、私が所用でマンハッタンまで出向いていったときにはお目にかかって、四方山話に花を咲かせてきた。『サンカクカンケイ』(新潮文庫)の解説は野中さんにお願いし、私は『銀河を、木の葉のボートで』(双葉文庫)の解説を書かせていただいた。

『虹の巣』は、400百字詰めの原稿用紙に換算すると、700枚にも及ぶ長編小説である。ちょっと殺人にも似た事件は起こるが、この作品はミステリーではないと私は思った。また、一読するといかにもそう思えてしまうかもしれないが、この作品のテーマは「母と子」ではない。母と子の葛藤を描いた、ミステリータッチの小説。そのような単純な言葉でこの作品を言い切ってしまうことなど、私にはできない。それはとても愚かなことだとも思う。
読了後、ふっと頭に浮かんできたのは、トルーマン・カポーティの名作『冷血』である。『冷血』はノンフィクションの形を借りた小説、いわゆるノンフィクションノベルだけれど、『虹の巣』は小説の形を借りたノンフィクション、つまりこれはすべて本当にあった話の再現なのかと思わされるような、ただならぬ現実感を漂わせている。
作中に出てくる登場人物、女性たち、母親たち、男性たち、幼子、少女、そのひとりひとりが圧倒的な存在感を持って迫ってくる。彼女たち、彼らが、作家の筆によって創られた人物であるとは到底、思えなくなってくる。また、過去のある場面をあざやかに切り取って、なおかつそこに読者を深く潜り込ませていく手法、重層的な構成も圧巻である。それを可能にしているのは、野中さんの文章であり、表現力であり、削ぎ落とされているのに饒舌な文体である。
しかし、私が冒頭に「恐ろしい小説」と書いた理由は、これらにとどまらない。
この小説が恐ろしいまでの魅力をたたえているのは、ここに描かれているすべての登場人物の内面が、私自身のそれに、恐ろしいほどぴたりと重なっているからだ。こういう場合「感情移入」という言葉が巷ではよく使われているけれど、それとは違う。感情は、どの人物にも移入できない。むしろ、違和感を覚えつづける。我が子をただ「自分が産んだ」という事実だけで、母親はこれほどまでに子に執着できるものなのか、と。

突き放しながら読み進めていくうちに、ふと気づいたら「私は子どもを産んだことがないから、母親の気持ちはわからない」とは言えなくなっている。
子どもを産んだことがあってもなくても、自分を見失うような恋愛にのめり込んだことがあってもなくても、自分が女であって男ではなくても、女優でなくてもお手伝いさんでなくても「ああ、私もこんなふうに何かに、誰かに、執着してしまうことは絶対にある」と、確信できる。私もそういう危険性を内面に孕んで生きている。
理由は、私が人間だから。愛する者への献身の蓑をかぶった執着。それは、人間が人間である限り、自己愛の裏返しとして、必ず持っているものであるように思えてならない。
だから、恐ろしかった。読めば読むほどに、私もここに登場する母親(複数、出てきますが、そのうちの誰か、というよりも、すべての女性、そして男性)になった可能性が、なる可能性がある、と思えてくる。だから怖かった。

このエッセイを書くにあたって、友人の特権を利用し、野中さんにインタビューを試みた。野中さんは私からのぶしつけな質問-----この作品のテーマは?-----に対して、こんなふうに語ってくれた。
「最初に浮かんだ自分のなかでのテーマは『寵愛と献身』でした。悪意はないのに、何かのきっかけで、相手に注ぐ寵愛も献身も、あるべき姿からねじれてしまうことがある。そのねじれを描いてみたいと思いました。人間と人間のつながりを描くことにずっと取り憑かれているので」
そうなのだ。『虹の巣』は「母と子の確執や葛藤」あるいは「母性とは何か」には決してとどまらない、人間の本質、人と人の関係の根源に潜んでいる罠のようなもの、人が人であるがゆえに逃れることのできない性(さが)に、ざっくりとメスを入れるようにして書かれた、世にも恐ろしい文学作品なのである。
そんな小説に、『虹の巣』という、美しく、儚げなタイトルをつけてしまえる野中さんのセンスに、私は脱帽する。人間が一生をかけて築いたつもりになっているものは、実は鳥の巣のように軽くて、もろくて、壊れやすい。けれども、ひな鳥たちが巣立ったあとの空っぽの巣には、まるで人々の営みのひとすじの痕跡のようにも見える美しい虹がかかっていることも、ごくまれにある。このタイトルを、私はそんなふうに受け止めた。

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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui