
今回は、ランニングの話を。
最初に断っておきますが、私は人に何かをすすめたり、すすめられたりするのが大嫌いなので、これは「ランニングは体にいいですよ。おすすめします」というエッセイではありません。そのつもりで、気軽に読んでいただけたらうれしいです。

ここ20年くらい、週5日、だいたい1時間前後、家の近所のカントリーロードを走っています。週5日になっているのは、残りの2日は夫といっしょに登山、冬場は雪原の散歩などに出かけているからです。
ということは、私は毎日最低1時間、なんらかの運動をしていることになります。この「毎日、運動」というのが私にとっては効果的なようです。
雨の日でも雪の日でも、どんなに仕事が忙しくてもパタッと手を止めて、必ず走りに行きます。ランニング=毎日の運動は、私にとってはもはや特別な活動ではなく、歯磨きや入浴みたいに習慣化してしまっているのです。だから、走らないと、気持ちが悪いんですね。歯を磨かないまま寝るのといっしょなんです。
この習慣化が実現するまでには、実に長い年月がかかりました。この連載のどこかの回にも書いたかもしれませんが、最初は散歩から始めて、次は山歩き(ここまではあくまでもウォーキング)で基礎体力をつけたあと、家の敷地内をぐるぐる走る(ここからがランニング)、その距離を少しずつ伸ばしていって、いよいよ家の敷地外にある道路に出て走るようになり、その距離を少しずつ伸ばしていって・・・・・・ある日、ふと気がついたら、ほぼ毎日、1時間、楽に走れるようになっていた、という感じです。「最初」から「ある日」までは、私の場合、3年くらいがかかったでしょうか。
最初の頃は、とにかくしんどかったです。息は切れるし、足は痛くなるし、走りながら「ああ、早く終わらないかな」「どうしてこんなに苦しいことをやっているの?」と、そんなことばかり考えていました。

それでも続けようと思ったのは、意識的になんらかの運動をしなくては、車社会のアメリカで健康を維持していくのは難しいと痛感していたからです。日本に住んでいた頃(36歳まで)にも、特に運動はしていなかったのですが、最寄りの駅までは歩くと20分くらいかかっていたので、それに駅構内の階段の昇り降りなどを加えると、自然に1時間くらいの運動ができていたのだと思います。
私はもともと、スポーツと名の付くものにはほとんど興味がなく、得意なスポーツもなければ、好きなスポーツもありませんでした。人といっしょに、つまり集団で何かをするのは苦手だし、人と競争するのはもっと苦手なので、当然のことながら、スポーツは苦手。ですが、ランニングならたったひとりでできます。必要なのは、ランニングシューズだけ。そこが気に入っています。
そして、これは意外だと思われるかもしれませんが、ランニングには「自然に親しみ、季節の変化を味わえる」という大きな魅力があるのです。走っていると、路肩に咲いている小さな野の花が目に入ってきます。その日その日の風を感じます。風の中に混じっている花の香りもあります。小鳥の声も聞こえます。青空に浮かんでいる雲も見えます。毎日走っていると、森の緑や空の色の微妙な変化によって、季節の移り変わりを感じ取ることができるのです。

最後に、私の感じているランニング効果をいくつかご紹介しておきます。
(1)瞑想効果
走っているはずなのに、なんだか座禅をしたみたいな効果が得られます。走り終えたあとは、気持ちがすっきりし、気分も落ち着いて、精神が浄化された感じ。雑念が消えるのですね。悩み事があるときや、仕事上、なんらかの問題が発生しているときなどにも、走り終えたあと「あ、そうだ」と解決方法を思いつくことが多いです。
(2)ひらめき効果
仕事に活かせそうなアイディア、小説のタイトル、冒頭の1行、次に書く作品のテーマ、どうしてもうまく書けなかった1行をどう書くべきか、などなど、ランニング中、ランニング後、なんらかのひらめきがやってくる、というか、降ってくることがとても多いです。走り終えたあと、車に飛び込んで、車内に常備しているメモ用紙に浮かんだアイディアを大急ぎで書き留めています。
(3)精神的な若さを保持できる
「気が若い」と、よく人から言われます。成熟していない、わがままだ、という意味ももちろんあるのだと思いますが、走るようになってから、自分の年齢を自分で決めることができるようになりました。私の肉体的年齢は60歳なのですが、自分では、社会的には30代の働き盛り、精神的には19歳だと思っています(笑わないでくださいね!)。反骨精神、冒険心、好奇心、向上心、野心などは、19歳の頃のまま、ちっとも大人になっていないのではないかと、いい意味で思っています。人間ですから、老いるのは当然のことです。でも、老(ふ)けるのは本人の責任。走り続けている限り、私は老けないような気がします。
(4)精神的な強さを獲得できる
小さなことでくよくよ、どうでもいいようなことでうじうじ、年柄年中、些細なことで悩んでいる、どうしようもない性格をしていました。弱虫で、小心者で、自分に自信が持てず、根っからの悲観主義者。今もその尻尾はおしりにくっつけていますが、それでも、走るようになってから、ずいぶん強くなれたなと自覚しています。人は人、自分は自分、と、この頃やっと、思えるようになりました。それはおそらく「毎日欠かさずランニングをしている」という、継続の力がもたらしてくれた強さだろうと分析しています。
というわけで、きょうもこのエッセイを推敲して仕上げたら、元気いっぱい、走りに行ってきます!

最初に断っておきますが、私は人に何かをすすめたり、すすめられたりするのが大嫌いなので、これは「ランニングは体にいいですよ。おすすめします」というエッセイではありません。そのつもりで、気軽に読んでいただけたらうれしいです。

ここ20年くらい、週5日、だいたい1時間前後、家の近所のカントリーロードを走っています。週5日になっているのは、残りの2日は夫といっしょに登山、冬場は雪原の散歩などに出かけているからです。
ということは、私は毎日最低1時間、なんらかの運動をしていることになります。この「毎日、運動」というのが私にとっては効果的なようです。
雨の日でも雪の日でも、どんなに仕事が忙しくてもパタッと手を止めて、必ず走りに行きます。ランニング=毎日の運動は、私にとってはもはや特別な活動ではなく、歯磨きや入浴みたいに習慣化してしまっているのです。だから、走らないと、気持ちが悪いんですね。歯を磨かないまま寝るのといっしょなんです。
この習慣化が実現するまでには、実に長い年月がかかりました。この連載のどこかの回にも書いたかもしれませんが、最初は散歩から始めて、次は山歩き(ここまではあくまでもウォーキング)で基礎体力をつけたあと、家の敷地内をぐるぐる走る(ここからがランニング)、その距離を少しずつ伸ばしていって、いよいよ家の敷地外にある道路に出て走るようになり、その距離を少しずつ伸ばしていって・・・・・・ある日、ふと気がついたら、ほぼ毎日、1時間、楽に走れるようになっていた、という感じです。「最初」から「ある日」までは、私の場合、3年くらいがかかったでしょうか。
最初の頃は、とにかくしんどかったです。息は切れるし、足は痛くなるし、走りながら「ああ、早く終わらないかな」「どうしてこんなに苦しいことをやっているの?」と、そんなことばかり考えていました。

それでも続けようと思ったのは、意識的になんらかの運動をしなくては、車社会のアメリカで健康を維持していくのは難しいと痛感していたからです。日本に住んでいた頃(36歳まで)にも、特に運動はしていなかったのですが、最寄りの駅までは歩くと20分くらいかかっていたので、それに駅構内の階段の昇り降りなどを加えると、自然に1時間くらいの運動ができていたのだと思います。
私はもともと、スポーツと名の付くものにはほとんど興味がなく、得意なスポーツもなければ、好きなスポーツもありませんでした。人といっしょに、つまり集団で何かをするのは苦手だし、人と競争するのはもっと苦手なので、当然のことながら、スポーツは苦手。ですが、ランニングならたったひとりでできます。必要なのは、ランニングシューズだけ。そこが気に入っています。
そして、これは意外だと思われるかもしれませんが、ランニングには「自然に親しみ、季節の変化を味わえる」という大きな魅力があるのです。走っていると、路肩に咲いている小さな野の花が目に入ってきます。その日その日の風を感じます。風の中に混じっている花の香りもあります。小鳥の声も聞こえます。青空に浮かんでいる雲も見えます。毎日走っていると、森の緑や空の色の微妙な変化によって、季節の移り変わりを感じ取ることができるのです。

最後に、私の感じているランニング効果をいくつかご紹介しておきます。
(1)瞑想効果
走っているはずなのに、なんだか座禅をしたみたいな効果が得られます。走り終えたあとは、気持ちがすっきりし、気分も落ち着いて、精神が浄化された感じ。雑念が消えるのですね。悩み事があるときや、仕事上、なんらかの問題が発生しているときなどにも、走り終えたあと「あ、そうだ」と解決方法を思いつくことが多いです。
(2)ひらめき効果
仕事に活かせそうなアイディア、小説のタイトル、冒頭の1行、次に書く作品のテーマ、どうしてもうまく書けなかった1行をどう書くべきか、などなど、ランニング中、ランニング後、なんらかのひらめきがやってくる、というか、降ってくることがとても多いです。走り終えたあと、車に飛び込んで、車内に常備しているメモ用紙に浮かんだアイディアを大急ぎで書き留めています。
(3)精神的な若さを保持できる
「気が若い」と、よく人から言われます。成熟していない、わがままだ、という意味ももちろんあるのだと思いますが、走るようになってから、自分の年齢を自分で決めることができるようになりました。私の肉体的年齢は60歳なのですが、自分では、社会的には30代の働き盛り、精神的には19歳だと思っています(笑わないでくださいね!)。反骨精神、冒険心、好奇心、向上心、野心などは、19歳の頃のまま、ちっとも大人になっていないのではないかと、いい意味で思っています。人間ですから、老いるのは当然のことです。でも、老(ふ)けるのは本人の責任。走り続けている限り、私は老けないような気がします。
(4)精神的な強さを獲得できる
小さなことでくよくよ、どうでもいいようなことでうじうじ、年柄年中、些細なことで悩んでいる、どうしようもない性格をしていました。弱虫で、小心者で、自分に自信が持てず、根っからの悲観主義者。今もその尻尾はおしりにくっつけていますが、それでも、走るようになってから、ずいぶん強くなれたなと自覚しています。人は人、自分は自分、と、この頃やっと、思えるようになりました。それはおそらく「毎日欠かさずランニングをしている」という、継続の力がもたらしてくれた強さだろうと分析しています。
というわけで、きょうもこのエッセイを推敲して仕上げたら、元気いっぱい、走りに行ってきます!

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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui