
ウッドストックの森の中で暮らすようになって、かれこれ20年が過ぎた。

生まれ育った岡山は18歳まで、学生時代から社会人にかけての10年は京都で暮らし、その後、東京へ出ていって8年。ということは、今、住んでいるこの森での生活が、私の人生の中で、最長になっている。おそらくここが私の終の住処になるだろう。
20年も暮らしていながらも、依然として、森の日々は驚きと喜びに満ちている。毎日のように、出会いと再会と別れがあり、そして、新しい発見がある。
小さな植物、小さな生物、雲の形、空の色、雨の降り方、樹木の変化。毎日見ていても、まったく飽きない。自然というのは、本当に素晴らしい力を持っている。ついこのあいだも、黒熊のカップルが庭に現れて、あまりの可愛らしさに目を見張ったばかりだ。
それまで、熊1頭、もしくは、母子連れは何度も目にしていたが、カップルを見たのは初めてだった。2頭はいっしょに散歩をして、いっしょに食事をして、そのあと、野生的なお相撲さんごっこみたいなことをする。それからぱっと離れて、また散歩、食事、お相撲をくりかえしながら、森の奥に消えていった。この間、およそ1時間あまり。窓辺に張りついて、生きている絵本の世界を堪能した。タイトルは『森の仲良し熊さん』。

ここで、我が夫の登場である。彼とは、恋人時代を含めると、32年もいっしょに暮らしている。ひとりの人と32年間、朝から晩までいっしょにいたら、さすがに飽きてしまうのでは? と思われるかもしれないが、実は、夫も自然と同じなのか、少なくとも私の方は、まったく飽きてはいない。
出会ったとき、まだ22歳だった夫は今、54歳。ひとりの男の20代から50代までの成長や(ときには後退や)変化をすぐそばで見せてもらっている私は、ラッキーだなぁ、などと思っている。
しかしながら、そんな「森の仲良し夫婦さん」にもひとつだけ、越えられない壁がある。草ぼうぼうの壁、というべきか。ぶあついこの壁の前で、幾度、離婚の危機を迎えたことだろう。この壁は毎年、夏になると出現し、夏のさかりになったとき、いよいよ危機が勃発する。
長かった冬が終わり、草木が芽吹き、美しい若葉の季節を迎える5月。雨が降るたびに森の緑が濃くなっていき、そこらじゅうで、花が咲き始める6月。山にはマウンテンローレル、野には無数のワイルドフラワー、池のほとりには野生のアイリス、池の面には睡蓮が咲く。草が茂り、花が咲けば、そこに小鳥や虫が集まってくる。りす(種類も豊富)も鹿も「森の黒熊さん」も集まってくる。まさに桃源郷である。

「やめてよ! どうして、そんなことをするの! そんなことをしたら、七面鳥の雛たちがかわいそうじゃない! 環境破壊はやめて!」
平和な森に、妻の金切り声が響く。芝刈り機を持って庭に出ようとしている夫を、般若の面で制止しようとして。数日前に、野原になっている前庭で、七面鳥の卵が孵ったばかりだ。巣は草の中にある。その草を、つまり「雛たちの家」を、芝刈り機でまっ裸にして、いいはずがない。
「だって、こんな草ぼうぼうの庭じゃあ、恥ずかしくて……」
「なんで、恥ずかしいのよ! うちは森の中なんだから、自然な状態にしておくのが当たり前じゃないの。誰に見られるわけでもなし。だいたい、秋になったら、草はみんな枯れるんだから、無理やり刈りとる必要がどこにあるの!」
このあとの展開は、推して知るべし。もしも私たちが別れることになったら、この離婚は「芝刈り離婚」と名付けられるだろう。いつの年だったか、私の留守中にこっそり草が刈られてしまっていたことがあり、そのときにはいよいよ離婚かと思ったものだった。

幸いなことに、まだ離婚には至っていないが、夏になって草が伸びてくると、夫は芝刈り機に手を出そうとしては、私に睨みつけられている。私は私で対策を練り、なるべく草が目立たないように、玄関の近くの草だけをはさみで切り揃えたりしている。
夫の言い分には、根拠がないわけではない。実はアメリカでは「前庭の芝生の状態は、その家の経済事情を表している」と言われている。つまり、芝が伸びていたり、芝に雑草が混じっていたりすると、貧乏で芝にかけるお金がないからだ、と思われる。
「思われたっていいじゃないの!」
と、私は声を荒らげる。
春先、緑の芝生の中から、にょきにょき顔をのぞかせている黄色いたんぽぽ。そこに集まってくる虫や蝶。虫のいるところには、小鳥がやってくる。そういう庭を持っている人を、貧しいなんて、私は絶対に思わない。逆に、心の豊かな人、ナチュラルライフを愛している人だと思っている。たんぽぽを、危険な農薬-----たんぽぽだけではなくて、いろいろな生物に害を及ぼす毒薬------で殺している人の心こそ、貧しいのではないか。
「あなたは、環境や生物や動物たちよりも、そういう世間体が大事なわけ? それに、うちがお金持ちだと思われて、泥棒に入られたらどうするの?」
「芝が伸び放題だと、長期間、留守にしていると思われて、泥棒に入られるかもしれない」
「入られたって、盗られるものなんて、ないじゃないの!」
芝刈り問題はまだ、完全に解決はしていない。おそらく今年も勃発するだろう。さて、今年はどんな作戦で乗り切っていくか。窓の外に広がるのどかな野原を見つめながら、ひそかに戦略を考えているきょうこのごろである。

生まれ育った岡山は18歳まで、学生時代から社会人にかけての10年は京都で暮らし、その後、東京へ出ていって8年。ということは、今、住んでいるこの森での生活が、私の人生の中で、最長になっている。おそらくここが私の終の住処になるだろう。
20年も暮らしていながらも、依然として、森の日々は驚きと喜びに満ちている。毎日のように、出会いと再会と別れがあり、そして、新しい発見がある。
小さな植物、小さな生物、雲の形、空の色、雨の降り方、樹木の変化。毎日見ていても、まったく飽きない。自然というのは、本当に素晴らしい力を持っている。ついこのあいだも、黒熊のカップルが庭に現れて、あまりの可愛らしさに目を見張ったばかりだ。
それまで、熊1頭、もしくは、母子連れは何度も目にしていたが、カップルを見たのは初めてだった。2頭はいっしょに散歩をして、いっしょに食事をして、そのあと、野生的なお相撲さんごっこみたいなことをする。それからぱっと離れて、また散歩、食事、お相撲をくりかえしながら、森の奥に消えていった。この間、およそ1時間あまり。窓辺に張りついて、生きている絵本の世界を堪能した。タイトルは『森の仲良し熊さん』。

ここで、我が夫の登場である。彼とは、恋人時代を含めると、32年もいっしょに暮らしている。ひとりの人と32年間、朝から晩までいっしょにいたら、さすがに飽きてしまうのでは? と思われるかもしれないが、実は、夫も自然と同じなのか、少なくとも私の方は、まったく飽きてはいない。
出会ったとき、まだ22歳だった夫は今、54歳。ひとりの男の20代から50代までの成長や(ときには後退や)変化をすぐそばで見せてもらっている私は、ラッキーだなぁ、などと思っている。
しかしながら、そんな「森の仲良し夫婦さん」にもひとつだけ、越えられない壁がある。草ぼうぼうの壁、というべきか。ぶあついこの壁の前で、幾度、離婚の危機を迎えたことだろう。この壁は毎年、夏になると出現し、夏のさかりになったとき、いよいよ危機が勃発する。
長かった冬が終わり、草木が芽吹き、美しい若葉の季節を迎える5月。雨が降るたびに森の緑が濃くなっていき、そこらじゅうで、花が咲き始める6月。山にはマウンテンローレル、野には無数のワイルドフラワー、池のほとりには野生のアイリス、池の面には睡蓮が咲く。草が茂り、花が咲けば、そこに小鳥や虫が集まってくる。りす(種類も豊富)も鹿も「森の黒熊さん」も集まってくる。まさに桃源郷である。

「やめてよ! どうして、そんなことをするの! そんなことをしたら、七面鳥の雛たちがかわいそうじゃない! 環境破壊はやめて!」
平和な森に、妻の金切り声が響く。芝刈り機を持って庭に出ようとしている夫を、般若の面で制止しようとして。数日前に、野原になっている前庭で、七面鳥の卵が孵ったばかりだ。巣は草の中にある。その草を、つまり「雛たちの家」を、芝刈り機でまっ裸にして、いいはずがない。
「だって、こんな草ぼうぼうの庭じゃあ、恥ずかしくて……」
「なんで、恥ずかしいのよ! うちは森の中なんだから、自然な状態にしておくのが当たり前じゃないの。誰に見られるわけでもなし。だいたい、秋になったら、草はみんな枯れるんだから、無理やり刈りとる必要がどこにあるの!」
このあとの展開は、推して知るべし。もしも私たちが別れることになったら、この離婚は「芝刈り離婚」と名付けられるだろう。いつの年だったか、私の留守中にこっそり草が刈られてしまっていたことがあり、そのときにはいよいよ離婚かと思ったものだった。

幸いなことに、まだ離婚には至っていないが、夏になって草が伸びてくると、夫は芝刈り機に手を出そうとしては、私に睨みつけられている。私は私で対策を練り、なるべく草が目立たないように、玄関の近くの草だけをはさみで切り揃えたりしている。
夫の言い分には、根拠がないわけではない。実はアメリカでは「前庭の芝生の状態は、その家の経済事情を表している」と言われている。つまり、芝が伸びていたり、芝に雑草が混じっていたりすると、貧乏で芝にかけるお金がないからだ、と思われる。
「思われたっていいじゃないの!」
と、私は声を荒らげる。
春先、緑の芝生の中から、にょきにょき顔をのぞかせている黄色いたんぽぽ。そこに集まってくる虫や蝶。虫のいるところには、小鳥がやってくる。そういう庭を持っている人を、貧しいなんて、私は絶対に思わない。逆に、心の豊かな人、ナチュラルライフを愛している人だと思っている。たんぽぽを、危険な農薬-----たんぽぽだけではなくて、いろいろな生物に害を及ぼす毒薬------で殺している人の心こそ、貧しいのではないか。
「あなたは、環境や生物や動物たちよりも、そういう世間体が大事なわけ? それに、うちがお金持ちだと思われて、泥棒に入られたらどうするの?」
「芝が伸び放題だと、長期間、留守にしていると思われて、泥棒に入られるかもしれない」
「入られたって、盗られるものなんて、ないじゃないの!」
芝刈り問題はまだ、完全に解決はしていない。おそらく今年も勃発するだろう。さて、今年はどんな作戦で乗り切っていくか。窓の外に広がるのどかな野原を見つめながら、ひそかに戦略を考えているきょうこのごろである。
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小手鞠るい(こでまり るい)
1956年生まれ。小説家。1981年、やなせたかしが編集長をつとめる雑誌「詩とメルヘン」の年間賞を受賞し、詩人としてデビュー。1993年、『おとぎ話』で第12回海燕新人文学賞受賞。1995年、受賞作を含む作品集『玉手箱』を出版。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で第12回島清恋愛文学賞を受賞。2009年、原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』でボローニャ国際児童図書賞。主な著書に『空と海のであう場所』『望月青果店』『九死一生』『美しい心臓』『アップルソング』『テルアビブの犬』『優しいライオン---やなせたかし先生からの贈り物』『私の何をあなたは憶えているの』など多数。
仕事部屋からのつぶやきは→https://twitter.com/kodemarirui